ネイチャーゲーム外伝2006.3.29
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 1986年にネイチャーゲームが日本に入ってきて今年(2004年)で18年、
ネイチャーゲーム指導員ハンドブックにも「歴史」が語られるようになりました。
ハンドブックなどで語られる正史の外に、草創期のエピソードを集めてみました。
正式な記録のないまま、私の記憶や聞いたことを中心に書くので、
色々と間違いもあるかも知れません。
そのことを含んで楽しんでください。
(※違う違う、これが真実だよというものがありましたら、教えてください。
全く別の、こんな話もあるよというのも、どんどん募集します)


「これは何なんだろう?」〜 服部氏、月刊アウトドアに目をとめる〜
「ネイチャーゲームかシェアリングネイチャーか?」〜どっちが売れる〜
「私にはヒゲがあります」〜コーネル氏、日本最初のアクティビティーは?
「やっぱりフジヤマでしょう」〜日本の国立公園をみてもらおう〜
「ネイチャーゲームは朝5時から夜11時まで」〜高尾山のワークショップ〜
「こんな経験めったにできないよ」〜雨にはしゃぐコーネルさん〜
「チケットがない」〜飛行機に乗れないよ〜
「希望が丘でNG(学校レクとの出会い)」園田さん佐藤さん原田さん
「最前列のハイ!ハイ!!おばさん」〜次回も参加します〜
「こちらからお伺いします!!」〜来てもらうわけにはいかない〜
「人事部の方をお願いします」〜広ーーーい?事務所で〜
「今宿野外活動センターに集う」〜さっさん、風さん、もや〜
「寝袋用意でおいで下さい」〜満濃池の養成講座〜
「ぬくもりの届くニュースレター」〜手書きメッセージ付きでした〜
「夜はまだ長いぞ」〜Oさんが帰ってこない〜




「これは何なんだろう?」
   〜 服部氏、月刊アウトドアに目をとめる〜

 自然保護協会の若手グループによって1973年に設立された、日本ナチュラリスト協会の人たちは、多様な実践を重ねていました。その中で、学びや新たな課題が生まれます。そんな中、ナチュラリスト協会で活動していた服部氏(現日本NG協会常務理事)は「月刊アウトドア」の中に、小さな書籍紹介の記事に目をとめます。その書籍が、「シェアリング・ネイチャー・ウイズ・チルドレン」でした。
 服部氏は、これはナチュラリスト協会の活動にヒントを与えてくれるのではないかと、3ヶ月かかって取り寄せます。これを、ナチュラリスト協会のY氏が翻訳しては試してみることになるのです。
※ところで、スタートのきっかけになった、1982年5月10日発行「月刊アウトドア」(通巻15号/山と渓谷社)の現物をさがしています。日本NG協会にもないのです。是非、歴史的遺物として保管しておきたいものです。どなたか、お持ちの方はおられないでしょうか
服部さん自身がこの時の事を自身HP「ハットさんの森」の中に書いておられます。

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「ネイチャーゲームかシェアリングネイチャーか?」
〜どっちが売れる〜

 ネイチャーゲームという言葉は、創始者であるジョセフ・B・コーネル氏が使っている言葉ではありません、和製英語です。
 コーネル氏の最初の著作は「シェアリング・ネイチャー・ウイズ・チルドレン(こどもと共に自然を分かちあおう)」でした。これをどう訳するかで悩むことになります。「こどもと共に自然を分かちあおう」では、どうも・・・。といって「シェアリング・ネイチャー・ウイズ・チルドレン」のままでは、多くの人に何のことか伝わらない。何しろ、(1986年)当時ネイチャーという英語すらなじみが薄かったのですから。(1989年にレクリエーションの仲間に紹介したら「アートネイチ○ー」との関係を聞いてくる人がいました)
 出版元の柏書房がそれでは売れないというので、「ネイチャーゲーム」という案を出したそうです。これでは、ゲーム性の強い第一段階(熱意を呼び起こす=カワウソ系)の活動にはふさわしくても、第3段階(自然を直接体験する=クマ系)や第4段階(感動を分かち合う=イルカ系)の活動にはどうも似つかわしくありません。多くの人が難色を示しました。そこで、「シェアリングネイチャー」という書名にしようかという案もありました。しかし、やはり売れないだろうということが強かったのです。現実論が勝った形ですが、日本ナチュラリスト協会の専門部会では、実践部分を研究する「ネイチャーゲーム」部会と考え方を研究する「シェアリングネイチャー」部会ができます。そして、その両方に参加するメンバーも少なくなかったようです。
 その結果、日本レクリエーション協会がかかわっていたということもあるのでしょうが、楽しさのある活動というイメージで広がりました。多分、「シェアリングネイチャー」では、社会的にこれほど広がりは無かったでしょう。その反面、当初から危惧したとおり「ゲーム」という言葉に引きづられて、皮相的に理解されてしまっているともいえます。そこで、内部的には「ネイチャーゲームはゲームじゃない」というキャッチフレーズで再確認しましたし、「シェアリングネイチャー」の思想(理念)とう用語を多用するようになりました。
 おとなりの韓国に研究所ができたのですが、Korea Sharing Nature Institute (韓国シェアリングネイチャー研究所)にされたようです。

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「私にはヒゲがあります」
    〜コーネル氏、日本最初のアクティビティーは?

 日本で最初に実施されたネイチャーゲームのアクティビティーは何んだとおもいますか?1986年コーネル氏を招いての日本でのワークショップで色々なアクティビティーがおこなわれたわけですが、各地での実施の前(1986.7.30)に東京でシンポジウムをおこなっています。その中で、コーネルさんが室内でできるアクティビティーもやっておられます。その最初は、〈ノーズ(動物あてゲームその1)〉です。ですから、日本最初は、〈ノーズ〉ということになると思います。
 ただし、コーネル氏来日の前から、翻訳にもとずく実践がおこなわれていましたし、現在のNG協会につながらない人の中にもコーネル氏の著書に基づいて実践していた人たちの存在も否定しきれませんから、本当のところは、判然としません。少なくとも、ナチュラリスト協会の人たちが最初に試したアクティビティーは何だったのでしょうか?この解答をご存じの方はおられませんか?

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「やっぱりフジヤマでしょう」
   〜日本の国立公園をみてもらおう〜

 コーネル氏初来日の時、せっかく日本に来てもらったのだから、日本の国立公園を見てもらおう・・・。ということで、選ばれたのが伊豆の大島です。F氏は、7月30日に大島に向かって出発するコーネル氏を送り、8月1日に熱海で大島からのコーネル氏を迎えに行ったのです。さて、熱海です。目の前にはフジヤマがそびえています。で、行きましょうと云うことになってしまったんですね、これが。車ではありますが、5合目をめざします。
 フジヤマに登れたのはいいのですが、翌日は高尾山でワークショップです、なにがなんでも、東京まで帰らなければなりません。急いで東京へ。ところが、渋滞にかかります。やっぱり日本に来たのだから渋滞を体験しなければ・・・・というわけではなかったのですが。東京には深夜になってしまいました。



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「ネイチャーゲームは朝5時から夜11時まで」
   〜高尾山のワークショップ〜

1986年8月2〜3日、高尾山において日本で初のネイチャーゲームワークショップが開催されました。その時の参加者は33名だったそうです。
 初日、H氏は高尾山でおこなわれていた別の行事のスタッフだったのです。やっとそちらが終わって、もうコーネルさんのワークショップは、終わっているだろうなと・・・やってくると。なんと、まだやっている。21時になっても22時になってもやっている。23時頃まで外にいたとか。そして、翌日も早朝から・・・5時!!!にはコーネル氏は外に出ていたとか・・・。
 何とも、勤勉なものです。こうしてネイチャーゲームのワークショップは、早朝から深夜までという作風ができあがったようです。(※最近は、少し自重しようということになっていますが)

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「こんな経験めったにできないよ」
   〜雨にはしゃぐコーネルさん〜

 コーネル氏初来日の2つ目のワークショップは、日本ナチュラリスト協会の活動拠点の一つがあった、山形県西村山郡朝日町でおこなわれました。(1986年8月5日)
  ところが、当日台風の接近のため早朝から大雨。参加者の集合にも支障が生じます。どうしようと困っていると、さらに追い打ちをかけるように部屋にコーネルさんがいない。さあ大変と車に乗って探しに出かけたF氏たちが見たのは、早朝のどしゃ降りの中を雨合羽を着て歩いているコーネル氏なのです。なんと彼は、どしゃ降りの中で、びしょぬれになっても、目を輝かして喜んでいるのです。そして、「今日はなんて素晴らしい日なんだ!」と。
 これには、F氏たちスタッフもビックリ。自然に対する気合が違うのです。(頑張っているのでは無いから、受け止め方ば違うのかな)目から鱗が落ちるおもいです。雨の日が「天気の悪い日」というのは、偏った判断なんですね。
こうして、ネイチャーゲームのワークショップや行事では、雨天決行が当たり前のことになって行くのです。
私自身、まだまだ心の底から雨の日を喜ぶまではなっていませんが、近づきたい心境です。

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「チケットがない」
〜飛行機に乗れないよ〜
 コーネル氏初来日の時のこと、山形でのワークショップを実施しながら、F氏は、はっと気がついた、コーネルさんが山形から大阪へ向かうための飛行機のチケットを東京に忘れてきていたのです。さあ大変。郵送してもらうにしても、取りに帰ろうにももう時間がありません。こんな時に頼りになるのは友だちです。F氏は友人のX氏に電話します「チケットを持って、至急山形まで持ってきてくれ」。持つべきものは友だちです。X氏は一肌脱いでくれました。航空券を持って山形へ来てくれたのです。セーフです。
 ちなみに、X氏は、そのまま車で大阪に向かうF氏について大阪まで同行したといいますから、なんともつきあいのいい人です。

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「希望が丘でNG(学校レクとの出会い)」
〜園田さん佐藤さん原田さん〜
 学校レクリエーション研究会の仲間に、ネイチャーゲームを紹介するワークショップが行われたのは、琵琶湖近くにある、滋賀県希望ヶ丘文化公園でした。この施設は、すぐ近くを高速道路が通っています。たまたまコーネルさんの部屋が、その高速道路側になってしまったのです。朝早いのも、夜遅いのも、雨の中も、風の中も平気なコーネルさんですが、この人工音の攻撃には、音を上げてしまったとか。
 学校レクとの橋渡し役は、ネイチャーゲーム翻訳に協力し、日レクの重鎮でもあったSさんだったのだろうと思います。これに参加していた広島の学校レクの中心(日本の学校レクの中心でもあります)であるHさんが、広島県民の森で毎年行われていたキャンプで「わたしの木」を紹介してくれて、そのキャンプに参加してた私が、ネイチャーゲームとは何かよくわからないまま、これを体験。(木当てゲームだと認識してしまったのですが)、私のネイチャーゲーム初体験になっているのです。
 また、この希望ヶ丘の参加者には福岡県のレクリエーション運動の重鎮のS氏も参加されていて、ここから福岡にネイチャーゲームの花が開き、1989年の全国レクリエーション研究大会で、ネイチャーゲームの部会がもたれることになる下地ができたことになります。
 Hさんの記憶では、このとき実施されたアクティビティーは、「コウモリとガ」「キツネ・ウサギ・葉」「同じものを見つけよう」「音いくつ」「サウンドマップ」「目かくしトレイル」「わたしの木」だったようです。

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「最前列のハイ!ハイ!!おばさん」
   〜次回も参加します〜

 まだ、ネイチャーゲームをどのように展開するのか手探りの実践を各地でおこなっているとき、関東各地の会場に元気のいいオバサンがいました。彼女は、どの会場でも最前列に陣取って、参加者に何か振られると真っ先に「ハイハイ・・・」と目を輝かして手を挙げるのです。そして、会の最後に次回はいついつに○○でやりますからと案内すると・・・すぐに「ハイハイ参加しますよ」と直ちに反応、そしてその会場に行くとまた最前列にそのオバサンがいて元気に「ハイハイ」。このハイハイオバサンこそ、現在各地の講習会で情熱的な指導を続ける、自称「女ターザン」ことMさんなのです。

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「こちらからお伺いします!!」
   〜来てもらうわけにはいかない〜

 ネイチャーゲーム協会が、まだナチュラリスト環境教育センターとして活動していたころ。その事務所は、F氏の自宅(アパート)の一室でした。外部から、指導依頼などの仕事を頼んでくる人は、立派な事務所があるのだろうと(勝手に)思いこんでいます。そして、事務所にはどのように行ったらいいのでしょうかと、問い合わせがあります。そんなとき、電話に応対する人は、個人宅の一室が事務所では足下を見られてしまうと大慌て。事務所までお伺いしますという相手の申し出を断固拒否して、「こちらから伺います」とか「○○駅の近くの△△でお待ち下さい」と、冷や汗を流しながら答えるのでした。
(今では、四谷にあるビルの1フロアーを借り切ってます。どうぞ、訪れてみましょう。電話で問い合わせたら、ちゃんと場所を教えてくれますよ)

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「人事部の方をお願いします」
   〜広ーーーい?事務所で〜

 これも、ナチュラリスト環境教育センターの時代。電話がかかってきました。仕事の依頼の電話です。近くにはF氏の子どもがいたりします。受話器を押さえて、目で合図をすると、子どもを別の部屋に移します。相手は、「人事部の人をお願いします」「(エッ!?人事部・・・そんなものない)しばらくお待ち下さい。」(受話器を押さえて)「人事の人を頼むといってますよどうします・・・」こんな時は、臨機応変。わざとしばらく時間をおいて「はい、人事のNです」などと、とっさに対応。またしても、冷や汗たらり。

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今宿野外活動センターに集う」
〜さっさん、風さん、もや〜

ネイチャーゲームがレクリエーションの世界で広く知られるようになったきっかけは、1989年の全国レクリエーション大会(研究大会)であったと思います。このとき始めて、ネイチャーゲーム部会が設けられたのです。
 しかし、その案内は今から思うと随分荒っぽいものでした。何しろ、部会の説明には、目かくしイモムシなどのアクティビティーをしている数枚の写真と、体験することになるゲーム名だけだったのですから。正直なところ、何なんだこれはと思いました。大会事務局に説明を求めましたが、よくわかりません。不思議に引かれるものがあって、参加しました。今宿野外活動センターに3日間、なんだかわからないけれど体験中心のプログラムということに引かれたのだと思います。
 研修が始まった当初は、「なんだか切れの悪い指導だなあ」などと思っていたのですが、しだいにこちらの気持ちが変わってきて、2日目の最後に「夜は友だち」をするころには、これはこれまでのレクリエーションの枠を超える、革命的な活動だと思うようになっていました。この時のメンバーが中心になって、全国のレクリエーションの仲間に種をまき始めるのです。

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「寝袋用意でおいで下さい」
〜満濃池の養成講座〜

 今宿でのネイチャーゲーム部会に参加していた、香川県の「満濃池のカブトガニ」ことSさんは、早速地元での活動の中心にネイチャーゲームをと考えます。そして、なんと1年間の長期プログラム「まんでがんネイチャー」を企画、その中核にネイチャーゲーム指導員養成講座を組み込んだのです。
 これが、1990年7月に開催された日本初の指導員養成講座に次いで、2度目(地方開催の最初)の講習会だったのです。(8月でした)
 しかし、地元の満濃町には適当な宿泊施設がありませんでした。そこで、参加者は寝袋持参ということで、「かりん会館」に集まってきたのです。町内だけでなく県内さらには中四国のかなり広範囲から参加者が集まり、その数50名。盛大な講習会でした。
 当時の講習会は、とにかく早朝から深夜までおこなうのが当たり前でした。この時も、「夜は友だち」や「カメレオンゲーム」などで夜遅くまで野外にいたものです。その代わりに、クーラーも無い8月の酷暑を乗り切るために、お昼寝タイムが設けられました。元気な参加者は、この時間を利用して温泉へ出かけたり、満濃町の子どもたちが作った丸太小屋の見学にいったりしてました。
 当時、講義の部分はすべてF氏が1人でこなしていました。この時の講習会の参加者からは、現在2人の上級指導員(NGトレーナー)と2人の中級指導員(NGインストラクター)が生まれています。そして、都道府県代表が3人うまれているのです。

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「ぬくもりの届くニュースレター」
〜手書きメッセージ付きでした〜
 1990年7月に指導員資格を取得し、公認指導員になると協会(注:正確には当時、ナチュラリスト環境教育センターで、協会という組織形態ではありませんでしたが)から、ニュースレターが送られてくるようになりました。そして、驚いたことにニュースレターの最後には手書きスペースがあったのです。毎回、F氏だったり,M氏だったりが一言ずつ何か書いておくられてくるのです。
 当時の講習会は、すべてF氏が主任講師で、講師はN氏やH氏など本部スタッフでしたから。その後N氏やH氏が主任講師をするようになっても、とにかく本部スタッフは、名前や住所を見ればどんな人だったか思い出せたわけです(実際には思い出せない人もいたかも知れませんが)。そして、1人ひとりの顔を思い出しながら、一言ずつメッセージを書いていたのです。せっかく指導員という形で結びついた人たちと繋がり続けたいという、熱い思いの表れでした。初期の指導員の更新率が高かったのは、このような対応の結果と言えるのかも知れませ。
 ちなみに、私も広島で養成講座を開催した後に、独自のニュースレターを送るとき、一言ずつメッセージを加えるようにしたものです。当時は、県内の指導員の顔は全部わかっていたなあ・・・。

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「夜はまだ長いぞ」
〜Oさんが帰ってこない〜
 コーネルさんの日本でのワークショップの影響か、私がネイチャーゲームにであった当時は、早朝や深夜のアクティビティーの実施も当たり前という空気がありました。特に、「魔法の黒い鍋」では、参加者の1人ひとりが語り出してしまうので止めるに止められず、どんどん時間が延びてしまうことが多々ありました。当時は、22時までかかるのは当たり前で、のびるとすぐに22時半くらいになってしまったものです。ところが、23時になっても帰ってこないグループとなると、さすがに心配になってきます。
 その中でもとりわけ遅くまで頑張ってしまうのが、Oさんでした。Oさんの「魔法の黒い鍋」では、参加者の1人ひとりがどんどん人生を語り出してしまうのです。Oさんも、そんな参加者の気持ちを重視するので、23時になってもOさんたちのグループが帰ってこない。ある時は、外には雨が降り出したのに帰ってこない・・・・。一体どうしているんだろうと、みんなやきもき。24時近くなって帰ってきて、聞いてみるとキャンプ場の固定テントの下に、大きな空間があるのを利用して、魔法の黒い鍋を続行していた、なんてこともありました。



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