「モヤさん」の人と自然の出会い旅]Z

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人と自然の出会い旅76
生かされた男の話

 3.11東北大震災で甚大な被害を受けた大槌町に行った。三陸の沿岸部の町はどこもそうだが、徹底的に破壊された大槌の市街地のありさまに、何度も絶句する。多くの人が命を奪われてしまったことに、実感が伴う。しかし、大津波の中を生き残った人もいる。大槌町の被災者のために「まごころ広場うすさわ」を中心になって運営しているRさんもその一人だ。大津波によって家財の全てを奪われてしまったRさん自身が先頭に立つ広場は明るい。津波に家を流された人、家は津波を免れたものの職場が無くなり失業した人、家も職場も流された人、職場を復興している人いろんな立場の人々が手を携えて広場を運営している。被災者が少しでも明るくなれれば、元気になれれば、困っている人が困りごとを口に出すことができれば・・・。全国各地から集まってくるボランティアの人たちもRさんのそんな心意気に触れて元気に活動する。
 Rさんは自身が仮設住宅に住みながら、四六時中考えている、悩んでいる、そして決断し行動している。仲間をボランティアを明るく励ます。熱く語る。最後の日にRさんと二人きりになったときに聞いてみた。どうしてそこまでできるのかと。Rさんは、自分が奇跡的に生き残ることができたのは、この事をなすために生かされたんだ感じるからだと。
 津波にのみ込まれて九死に一生を得たという人がたくさんいるが・・・Rさんの体験はとりわけ奇跡的だ。津波に家ごと流された。周りの家も流されていて、次々と人を乗せたまま横倒しになって、水没してゆく。なのに、Rさんの家は300mを流されながら、倒れずに立ったままで助かった。(第1の奇跡)愛犬と共に屋根に出て助けを待っていると水に流されていながら隣家が燃えだし、火か移ってくる。ここにはもういられないと。流れてきた高圧電線にすがって近くの鉄骨住宅のベランダに逃げ移る。ここなら安全かと思っていると津波の第2波が襲う。二階に逃げても真っ黒な海水が迫る。家具に乗っかって少しでも高いところへ。どんどん水位が上がる。頭が天井についてしまう。それでも水位が上昇してくる。夢中で天井をたたく。(このときできた傷跡が盛り上がってUさんの手に残っている)それでも、天井は破れない。愛犬と共に残された空間に口を出す。あごまで海水がかかり口だけが隙間に残る。後がない。もうだめかと思った。10分後、水が引き始める。(第2の奇跡)足首のあたりまで下がったところで、外に・・・屋根の上に出る。屋根の上で助けを求めるが、周囲はどんどん大変なことになってゆく。プロパンが爆発して火災が発生している家に車が流されてぶつかる、あっという間に車が燃え出す。燃える車が流されてほかの家に火が移る。町を覆う海の上の火の海。どこからも人の声はしない。またしても万事休す。靴のないまま瓦礫の山を越えて別の家に移る。助けを求めて叫び続けるが誰も気づいてくれない。ところが、ここに一人の消防士が表れる。この人は非番で津波のこない家にいたのだが、制服に着替えて津波被害地にやってきたのです。彼の指示に従って移動します。その人は自分のいる高台から、Rさんのたどり着いた屋根の上に脚立を渡してくれたのです。どうしてなのか、その人は他の家で脚立を借りて担いでいたのです。(第3の奇跡)
 多くの隣人が亡くなる中、度重なる危難を乗り越えて奇跡的に助かることができたのは、自分に役割を与えるためだ、その役割は被災者を力づけつながる役割だと強く感じておられるのです。「生かされた」自分がその役割を投げ出すようなことがあってはならない。仮設に入った全ての被災者が仮設を出て普通の生活に戻ることができるようになるまで、自分は頑張る。仲間やボランティアの力を借りて、広場を守りそれぞれの仮設の近くに、被災者が集うことのできる場所を作る。そう語るRさんの顔は強く厳しかった。いつも底抜けに明るいRさんの笑顔の底にある強い心を見たように思います。
 Rさんの使命に私も何かお手伝いできることは無いのか。心を動かされました。
2011.8.29(9.21書き換え)
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人と自然の出会い旅77
ぎんどろの木〜伝統を伝える人

 ぎんどろ(銀泥)の木という変わった木がある。葉の裏が銀色で、かすかな風にも葉がそよいでキラキラと輝くのです。だから、この木の和名を「ウラジロハコヤナギ」といいます。この木のことを知ったのは、もうずいぶん前に呉の大空山でおこなった、ネイチャーゲーム指導員養成講座でのこと。講座2日目の午後は、いつものように最終日の指導実習の見本を見せることにしていますが。そのときも風情のある一本の木を選んでSさんを相手に<わたしの木>の見本を見せました。終わった後、木に詳しいSさんから、その木がぎんどろと言う名前の木で、宮沢賢治の愛した木なのだと教えてもらったのです。
 それから、何年かして賢治好きの知り合いが、花巻を訪れ記念にぎんどろの苗木を持ち帰ったものの、枯れてしまったと嘆いていました。それで大空山のことを思い出しました。大空山には、あのわたしの木が親木になって、山頂の公園一帯に実生で小さな苗が至る所に生えていたからです。銀泥の種は綿のようにふわふわと飛ぶのでかなり広範囲に広がっているのです。そのうちの、2本を掘り起こして庭に植えてみました。すると、土地がマッチしたのかすくすくと成長してくれました。これをくだんの知人に株分けしたところ、その人の所でもどんどん大きくなっているようです。我が家の銀泥の木は狭い庭で大きくなりすぎてしまい剪定しても逆に株立ちして枝を広げます。その上、竹のように地下茎?で広がっていくのでいささかもてあましているのです。
 今年(2011年)、東北大震災の復興支援ということで、岩手県の大槌町に入りました。縁あって、臼沢鹿子踊保存会の人たちが運営している伝承館というところで泊まらせてもらいました。震災後かなり長期間被災者の避難所として大活躍していた施設です。この施設を管理しているT会長さんは、もの静かな方でしたが、鹿子踊りだけでなく、民謡の伴奏の尺八もとてもうまくて、伝統的な文化に非常に深く関わっておられる方です。
 そのTさんが、今、新しい試みを考えられています。鹿子踊に使う鹿子のかぶり物には、一寸幅の木のかんなくずを大量に使うのですが、そのための木が減ってきているというのです。杉などでは脂がでるし色も黒っぽい。地元ではどろの木と呼ばれている木で作ると白くていいものができる。しかし、用材には向かない木なので自生しているものをつかうしかない。途中に節があるとちぎれやすくなるので、樹齢20年以上でなければならない。このまま、山で探してただ切って使っていたら、そのうち使えるものがなくなってしまうのではないか。そう思って、挿し木をして増やそうと思うのだが、これがなかなかうまくいかないとのこと。話していてい、その木は銀泥の木ではないかと思い当たりました。インターネットで画像を確認。私の家では困るぐらい増えているのに、盆栽をしているTさんがうまく増やせずにいる。不思議なことです。どうも土の関係とかありそうです。銀泥といえば賢治の故郷花巻のぎんどろ公園と思い至って、調べてみると公園の樹木の剪定を賢治ゆかりの花巻農業のクラブが関わっている。たぶん、花巻農業なら銀泥の栽培について情報を持っているだろうから問い合わせてみようと言うことになりました。
 それにしても、この計画がうまくいっても使えるものがとれるようになるのは20年後です。震災と津波で驚異的な被害にあった大槌で、65歳になるのTさんが、20年後に鹿子踊を続けているであろう人々のために今から木を植えようとしている。このような心根の人がいてこそ伝統文化は伝わってきたし、伝わってゆくのだなと思わされました。そういえば鹿子踊でも踊り手にたくさんの子どもたちが集まっているようですし。民謡の会にも子どもたちが参加していて、全国大会で優勝の実績のある子たちが3人もいるとのこと。先を見据えて、若い後継者の育成に抜かりがない。足下のしっかりしている人にはかなわんなぁーと思わされました。そしてこれも、ぎんどろの木にまつわる素敵な出会いでした。
(2011/09/02)
※後日談(2012/03/06)
 実は、Tさんが鹿子踊りの為に、栽培をもくろんでいるのは、ギンドロノキではなくドロノキでした。近い種類の木なので、葉の様子や増え方や共通することが多い上に、岩手なのでギンドロと思い込んでしまった為に陥った間違いでした。その後、知人がTさんと関わっていただいて、ドロノキであるとはっきりしました。


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人と自然の出会い旅78
鈴子さんとアオギリ

 日本が世界を相手に戦争をしていた頃のこと

 広島に沼田鈴子さんという若い娘さんがいました。鈴子さんの勤め先の病院の運動場には4本の大きなアオギリの木がありました。鈴子さんはそのアオギリの木の下で友達とおしゃべりをし、お弁当を食べ、歌を歌い、楽しい時を過ごしたものでした。アオギリの場所は鈴子さんたちにとって憩いの場所であり幸せのそのものの場所だったのです。その上に鈴子さんには待ち遠しいことがありました。それは、8月になれば戦地にいる婚約者がいったん帰ってくるのです。そしたら、略式だけど結婚式を挙げることになっているのです。婚約者の帰還を指折り数えて幸せに包まれていたのです。
 1945年8月6日、その日も鈴子さんはいつものように病院に出勤し仕事を始めていました。そして、8時15分鈴子さんの勤め先から1.5 km南の上空で原子爆弾が炸裂したのです。ピカッと強烈な閃光、つづいてドーンとものすごい爆風。・・・鈴子さんの勤め先の建物は鉄筋コンクリートでしたが、崩れてしまいます。崩れてきた建物の一部が鈴子さんの左足を押しつぶしてしまい、鈴子さんは気を失います。仲間によって救助され収容所に担ぎ込まれ止血をしてもらいますが、そこには生死をさまよう被爆者がたくさんいて、・・・十分な手当をしてもらえないままま、ほうって置かれることになります。3日たって、やっとお医者さん診てもらったときには、足首の傷は膝を超え太ももまで広がっていました。鈴子さんの生命を助けるために医師は、彼女の脚を太ももの所から切断することにします。 こうして、左脚を犠牲にしてかろうじて一命を取り留めることのできたのです。しかし、さらにつらい知らせが舞い込みます。もうすぐ帰ってくるはずだった婚約者は7月に戦死していたのです。
 この知らせは、鈴子さんに残されていた希望を根こそぎ奪ってしまいます。彼女は、自暴自棄になってしまいます。看病してくれる家族に当たり散らし、松葉杖を投げつけ、毎日毎日考えることは、どうやって死のうかと言うことばかりです。
 そんな鈴子さんを見かねた父親は、病院での仕事を再開するように進めます。でも、鈴子さんが病院で見たのは幸せの場所だったアオギリの焼け焦げた姿、そして自分とは違って元気に働く仲間。片足を失って思うようにいかない鈴子さんはますます投げやりな気持ちになってしまいます。・・・そんなある日、熱線に焼け焦げた4本のアオギリの内3本から小さな枝が伸び新しい葉をつていることに気づいたのです。人間の犯した愚かしい戦争の犠牲になったアオギリは、焼け焦げてなお、生きようとしていたのです。
 アオギリの語りかける声が鈴子さんには確かに聞こえたのです。「死んではいけない生きるんだよ」「生きなさい」と。焼け焦げても新しい芽を出すアオギリに生きる力・生きる勇気をもらった鈴子さんは、死ぬことを考えるのをやめ、懸命に生きます。そして、教師になります。でも、彼女が原爆のことも左脚を失ったことも生徒たちに語ることはありませんでした。全てを彼女の胸の中に納めて、ただ懸命に生きたのです。

 1980年、アメリカ国立公文書館に広島・長崎の核被害を記録した膨大な映画フィルムが眠っていることがわかります。返還されたフィルムの中に、カメラに向かって無表情で左脚の傷跡を見せる女性がいました。鈴子さんです。生徒たちは、鈴子さんに訴えます「なぜ先生は被爆体験を、私たちにおしえてくれないのですか」と。真剣な生徒たちの訴えに応えて、鈴子さんはついに自らの被爆体験を語り出します。声の出せないアオギリに代わってその思いを人々に伝えようと決心したのです。自分には、アオギリにもらった勇気と生きる力を子どもたちに伝えなければならない使命があると。広島にやってくる、多くの小学生・中学生・高校生そして大人たちに伝えました。アオギリの木の訴えは鈴子さんを通じて、子どもたちや大人たちをも勇気づけます。そして子どもたちは、自分たちの学校や公園に鈴子さんの分身ともいえる被爆アオギリの種から育ったアオギリ二世を植え始めたのです。今では、日本全国3000カ所にそして、アジアへヨーロッパへアメリカへ植えられているのです。世界中で、今も人々を勇気づけ、「平和の種」となっているのです。

2011年7月12日、最後まで世界の平和を願いながら87歳でなくなられました。

沼田さんに最初にお会いしたのは20年以上前になります。穏やかで、温かな語り口に魅了されました。15年前に広島でネイチャーゲームの全国研究大会を開催したとき、ゲストスピーカーとしてお願いしたところ、快諾していただけました。ところが、 大会が近くなったころ体調を壊され、代わりの方を紹介いただきました。その方も素敵な方で、大会は盛り上がったのですが・・・。沼田さんがとても恐縮されていたのが印象的でした。それにしても、自然を愛する仲間に、アオギリに勇気をもらった鈴子さんの話を伝えたかったと思っていました。今年6月に、ネイチャーゲームの創始者であるコーネルさんご夫妻が、ヒロシマにこられました。被爆者の話が聞きたいとの希望でした。すぐに、沼田さんのことを思い出したのですが、完全に寝込んでおられて、又果たせないまま逝ってしまわれました。

 76話のRさん77話のTさんの使命感にあふれた話を書いていたら、沼田さんの話もどうしても残しておきたいとの思いが湧いてきました。<ナチュラリストの物語>として語ってゆきたいと思います。


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人と自然の出会い旅79
「害獣」を助けてしまった話

 山が登れるうちに百名山を少しずつ登っておこうと思っています。近いのに四国の剣山をまだ登っていなかったので、今回挑戦しました。つづろ堂というところからコースタイムで5時間半くらいのコースで剣山へ。そして、三嶺へ、さらに天狗塚へという楽しい山旅をしました。夏山なのに平日の山は静かで、3日間歩いて出会った登山者は一人だけというスペシャルな山旅でした。
 そんな山行の2日目。ちょっと疲れたし、昼も近いからエネルギー補給と小休止をと、食事を楽しんでいてふと気がついたのです。鹿よけネットの脇に、子鹿が一頭寝ています。それまでも、ガスのせいで視界が遮られているせいもあって、遭遇直前になって私に気がついた子鹿が慌てて逃げ出す姿を何頭か見ていました。しかし、この子鹿はこちらが単独行とはいえ、人間が十数mまで近づいてきて、ザックまで下ろしているというのに、のんきに昼寝です。「これならピントをしっかり合わせて写真が撮れるな、ラッキー」と、カメラを取り出します。望遠でパチリ。この状態なら、やつが気がつくまで近づいて写真をと思います。がしかし、変です。動きません、ハエがたかっているようです。あれ?、死んでいるのか?、野生で生きるのって大変だよなと考え始めた頃、たかっているハエをいやがってピクリ。・・・生きている。でも、動き出さない。よくよくのんきなやつだと思いました。しかし、よく見ると、鹿よけネットに絡まっているのです。
 近づいて行くと、子鹿は焦りましたが、完全にネットに絡みとられていて身動きできない状態です。「危害は加えないよ。」と声をかけながら近づきます。動けないから、糞尿はその場で垂れ流し。(いかに野生動物とはいえ、寝るところには糞尿はしないものです。)動けないのをいいことに、ハエやアブがたかっています。肛門あたりからは血まで出ています。何日前からこの状態になってしまったのか、かなり衰弱しています。「害獣」なんだけどなと思いながらも、あまりにも哀れで見過ごすことができませんでした。
 子細に見ると、左前脚にネットがぎちぎちに絡みついています。多分、最初にネットに絡まった時に、抜け出そうとあがく内に、ますます複雑に絡まってしまったのでしょう。このネットは、捕獲用というよりは、鹿の食害から木々や植生を守るために張り巡らされている物です。経験の浅い子鹿は不注意に近づき、こんな目にあってしまったのでしょう。
 ほどいてやろうと、左前脚に手をかけてみます。想像以上に脚は冷えています。一本一本、網を外して行きますが、前脚が硬直していて、作業はなかなか進みません。それでも20分くらいかけてついに左前脚解放。それでも、立ち上がろうとしません。「骨折?」不安がよぎります。体にかかったネットをどけても、立ち上がりません。後ろ脚側に回ってみると、こちらも絡まっています。でも、動けないほどではない。・・・・「骨折?ならどうしようもないけど」と、またまた不安がよぎります。
後ろ脚にさわってやると、よろよろと立ち上がりました。何日も、動けないでいて体が硬直していたようです。後ろ脚もネットから抜け出し、よろよろと歩き出します。肛門は血で赤く染まっています。それでも、少しずつ足取りがしっかりしてきます。笹原の中をゆっくりと去って行きました。「もう、ネットに近づくなよ」と声をかけていて、せっかくのチャンスなのに経過を写真を撮って無いことに気がつきました。
 あの状態で、生き残れるのかどうかは不明です。助けた者としては、生き抜いて欲しいと願います。ただ、鹿の食害は、すさまじいものがあります。冬季に樹皮を食べられて丸裸になった木があちこちにあります。立ち枯れの原因が全て鹿という訳では無いのでしょうが、巨木の立ち枯れも目立ちます。人間の目には完全草食動物の鹿は、平和的でやさしい生きものです。しかし、明治期にニホンオオカミが絶滅して以来、生態系から鹿を襲い生息数をコントロールする肉食動物がなくなってしまいました。山里ではイノシシや鹿による被害が年々歳々報告されます。人と野生動物との新しい秩序作りが大きな課題です。それだけでなく、山の中(本来は野生動物の世界です)でも、生態系の乱れが放置できない状態になってしまいました。人工林の食害だけでなく自然林でも食害が進んでいるのです。この事態に対する、人間の努力の一つが鹿よけネットの設置です。今回の山行のコースのあちこちに広大な範囲・長大な長さのネットが設置されていました。これを敷設した労力を考えると頭が下がります。三嶺の山頂付近では山の周りをぐるりと囲い込むネットまで設置されていました。登山道とネットのラインが交差する地点には、橋が設置されていました。最初見たときには「扉じゃなくて橋?」と思いました。写真のような橋です。登山靴を履いた人間には、何の問題もなく通行できるのですが、脚が細く蹄のある鹿にとっては通過できないようになっているのです。扉とちがって、開閉のし忘れということが無く、なかなかの工夫だと思います。
 その上で、銃による捕殺も行われています。そのためでしょう、鹿はヒトを見ると遙か彼方でも、一声高く警戒音を発して逃げていきます。ほとんどの場合、私が気づく前にピィーと警戒音が発せられ、音に気づいて探すと逃げていく親子や群れが見つかるといった状態です。まれに、私の方が先に気づくことがあっても、カメラを出す頃には気づかれてしまいました。一人で静かに歩いていても遠くから見つかってしまうくらいにも警戒心の高まった鹿を捕殺するのは至難の業だろうなと思います。
 どうやったら、「人と自然」・「自然と自然」が共にあることができる状態を創り出すことができるのだろうかと思います。これも、ニホンオオカミを絶滅させてしまった人類の責任なのでしょう。

2012.7.21記

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人と自然の出会い旅80
大槌安渡復興米を育てる人

2011年3月11日。甚大な津波被害をうけた大槌。その中で、奇跡のように生き延び、子孫を増やそうとしている稲があります。その名も大槌安渡復興米。
 大槌に菊池妙さん(71)という女性がおられる。彼女の家は大槌の安渡(あんど)と言うところにあったのですが、3.11の大津波は家をまるごと奪っていったのです。瓦礫撤去が終わり。時は過ぎ、秋が来ました。夏草が枯れた時、元玄関前に姿を現したのは3本の稲。この稲はどうしたのだろう。そもそも近くに田んぼは無いのです...。
 想像ですが、大槌を襲った大津波は、街を越えずっと先の水田までも襲ったのでしょう。そして、そこにあった落ち籾を引き波が妙さんの家の玄関に運び、水田とはほど遠い環境にも負けず、誰の世話もうけることなく育ったのです。
 この奇跡の稲を、大槌の未来につなげて行くべく、プロジェクトチームが結成されました。その中心になったのが、妙さんの同級生の臼澤康弘さん(71)です。康弘さんには稲作経験はありましたが、なんと30年ものブランクがあったのです。それでも、自分の使命と感じて立ち上がります。
 2本の稲穂(1本は妙さんが宝としてどうしても手放さなかったとか)についていた籾は、三百四十粒余り。その中から芽をだし苗とすることができたのは150本。この苗を、大槌のシンボルであるひょうたん島にちなんで、ひょうたん型に作られた小さな田んぼに、2本ずつ75株、丁寧に植え付けられました。今年の秋、美事に実った稲は、4kg余り。「食べてみたい」と言う関係者に臼澤さんは宣言します。「食べたければ、来年まで生きてください」と。ということで、全てを種籾にします。来年の田植えに向けて、新たな田んぼも用意されました。康弘さんは、苗を育てるための準備を始めています。発芽率が50%くらいとして、次も2本ずつ植えたとして、1反ほどに植え付けができそうです。来年の秋こそは・・・少しは食べることができそうです。そして、2年後にはより多くの田んぼで、大槌が復興していく未来を乗せて「大槌安渡復興米」は、作付けの場を広げ、子孫を増やして行くのです。
 71才の康弘さんは、この取り組みを通して、生きる目的ができたとおっしゃいます。生きて、この米を増やして行きたいとおっしゃいます。人は、自分の使命が見えたとき、夢を語ることができ、生き生きと生きることができる。そのことを、又確信しました。
2012.10.21記



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