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  もやの世界
ここでは、「もやHP」の基本的なコンセプトと異なるために、
掲載を見合わせてきた、文章をこっそり掲載することにします。
政治的な考えや社会的な問題に対する私の考えです。
このような内容に興味のない方はもとのページへお戻りください。
m(_ _)m

想定外の景色の中で
普天間移設と9条

地球温暖化への懐疑論について

失言」よりも深刻なこと
「是正」指導から10年
教育再生会議は何が為したいのか
集団自決この明白な史実を操作する輩
だれが利己的なのか

キング牧師の「I Have A Dream」演説につい
I Have A Dream私には夢がある)」演説
ヒロシマの「日の丸」「君が代」強制

拉致事件と国家権力の邪悪性
「歴史は科学ではない」人たちの作る教科書
奉仕の義務化が意味するもの
レンジャク突然死事件の真相の究明を


リンク:
反戦情報

ここに掲載している文章のいくらかを載せている月刊紙のHPです。
鋭い分析が多くあります・・・私の文章のことではありません(^_^)ゞ

西村有史氏のページ 

大分の開業医の西村さんの自家頁
素晴らしい思想性と論理性で、鋭く切り込む分析は恐いくらいです。
私が尊敬する諸氏への批判も鋭く、でも納得させられてしまいます。

国立くにたち)の教育市民版
国立の教育を守る市民連絡会が毎月出しているミニコミです。
教育の統制化に、市民の視点から抗していこうという熱い思いが


どうぞご意見くださいokiomoya☆fuchu.or.jp

迷惑メールに苦慮しています。の部分をに換えて発信してください。

「想定外」の景色の中で


  
 テレビの画面に映し出される津波のライブ映像は、余りに非現実的で特撮による作り物のシーンのように感じてしまった。9.11テロで旅客機が貿易センタービルに突っ込む姿もそうだったが、私たちの日常的な感覚を大きく超えてしまうと、例えそれが本物でもリアルさを失い作り物と感じてしまうのであろう。
 個人的には、津波のメカニズムについてはかなり勉強してきたつもりだった、インドネシアの大津波の時には授業でどう説明するか工夫したものだ。だから、通常の波と津波がどう違うのか、どういう事態が起こるのか、一般の人よりかなり詳しくなっていた。巨大津波がどのように襲ってくるのか頭の中で何度も何度もシュミレーションもしていたし、インドネシアの津波の映像も繰り返し見ていた。それでも尚、私の心は想定外の絵空事、良くできた作り物の映像だと感じてしまう。理性は、これは本物の映像だと、言い聞かせるのだが、心は現実としてなかなか受け容れようとしない。
 一方で、原子力関係の専門家たちが繰り返す「想定外」との発言に、強力な違和感を感じた。少なくとも専門家と自他共に認める人たちが、その程度の想像力しかなかったのか、その程度の想像力で安全であると断言してきたというのだろうかとあきれる。もちろん、今回のような事態を私が、想定できていた訳ではない。それどころか私自身が、前記のように何度もシュミレーションしていたはずなのに、津波の映像が受け止められなかったし、原発が一端停止したと聞いたときにも、やれやれ良かったと安堵したものである。定期点検中の原発までもが問題を起こすなんてそれこそ思っても見なかった。そのような自分自身の認識を承知した上で、彼ら専門家にとっての「想定」というのは何だったのだろうと思う。
 彼らにとっての「想定外」は、単に考えたことも無かったというだけではないように思う。一旦は考えてみたのかもしれない、しかし、起こる確率があまり低そうだから、「考えなくても良い」としてきた部分、想定の外に追いやった部分なのではないだろうか。人間の思考はコンピューターのように、あらゆる可能性をしらみつぶしにチェックするような非効率的なことはしない。無駄だと思われる部分は切って捨てて前に進む。これは、専門家にとっても常套手段なのであろう。しかし、無駄でも杞憂でも無かった。津波の「専門家」が想定していた巨大津波が現実のものとなった。1000年単位くらいで起こる津波のようだから、運が良ければ起こらなかったかもしれない自然現象ということになる。それでも、確率は1000分の1。今回の事が無ければ100年くらいは原発に依存する社会が続いたであろうから、確率は10分の1ということになる。これは、高いのか低いのか、単純な賭なら起きない方に賭けるが・・・・原発の性質を考えると。かなりの高い確率だといえる。やはり、想定の中に入るべき危機だったはずである。他にも想定に入れておかなければいけない危険性があるのだろう。
 事故の後にも、原発推進派の解説者がテレビで、エネルギー事情や自然エネルギーの性質や地球温暖化の問題を考えると、原発の無い社会は成立しない、「解がない」と断言していた。この人の中では、まさにそうなのだと思う。原発を外しては日本の国が生き残る「解がない」と判断して、どのように原発と共存するのかと考えてきたし、今も考えているのだろう。単に頭が固いだけなのかもしれないが、ある意味「まじめ」な人だと思う。このような人は、ある意味貴重だとも思う。しかし今は、原発を想定の中から外して、それでも社会が成立するような解を必死で模索するときなのではないかと思う。
 「組織の(トップの)決定した方針に反することは、組織内の人間は口にしてはいけない。そのような行為は敵対行為であり、そのような者は罰せられて当然である。」というような論理がある。ここ十数年間の広島の教育界を支配しているよどんだ空気の元凶のひとつである。同じような発想で、電力会社の職員が、原子力発電の危険性に言及することは反組織的行動であるとされていたのではないだろうか。「世間」もそのような発想を当然のこととしてきたのではないだろうか。しかし、このような事態になれば、「世間」は末端の職員までも隠蔽体質の象徴として攻撃する。「世間」が本当に今回のような事態を避けたいのであれば、自からの職場で、地域で、組織で、声を上げる人にならなければならない。声を上げる人を排除しない人にならなければならない。そのような社会を作り上げることを想定の中に入れて行動できる人になりたい。そのように思う。


普天間移設と9条

 鳩山政権があっけなく幕を閉じた。政治と金の問題はさておき、普天間問題がネックとなったと言えよう。彼の言にあるいは民主党の公約に日米関係のあるべき筋と沖縄の基地問題の解決に向けた方向性を期待した人たちは、怒りと幻滅を感じるのは当然のことである。一方、国外や県外移設は都合が悪いと考えたり,無理と考えていた人たちは「それみたことか」と調子に乗っている。できもしないことをやると言い、沖縄の人たちに無駄な希望を与えてしまったのが悪いというのである。「寝た子を起こすな」論的ないやらしさを感じる。この人達は、沖縄の人たちにこの現状を克服しようなどと思わず、あきらめてくれというのである。だから、ともあれ鳩山氏が国外あるいは県外移設を模索しているときに、できるものならやってみなさいと高見からながめていたり、沖縄の基地の有用性を誇示し、足を引っ張っていただけである。この人達は、沖縄の現状は「お気の毒」だが、このままにしておく腹だということであろう。
 沖縄の歴史を学び基地の現状を見て尚、辺野古でしかない、県内しかないという判断をしている政治的判断の根拠は何なんだろうかと思う。あるいは、「やむなし」であるのかも知れないが・・・。戦後75年続いたこの現状を、さらに未来永劫続けろと言うのだろうか。いつになったら区切りをつけようというのであろうか。
 このような批判に対しては、国際関係の中でどうしようも無いではないかと、自らの責任を逃げる。しかしこのような判断は、米軍基地の存在が日本の政府の容認なしにはあり得ないという大前提を忘れているように思える。主権国家であるはずの日本に米軍が国際法上合法的に駐留できているのは、日米安全保障条約の中で日本政府がこれを認めているからである。そして、日米安保は1970年以来、日米両国のうち一方がい一年前に予告さえすれば廃棄できることになっている。後先の事を考えず理屈だけを言えば、今年通告すれば来年には日米安保は失効し、米軍基地の存在は合法性を失ってしまうのです。であるとすれば、普天間基地の国外移設どころではない。無論、60年(新安保になって50年)の歴史をかさねてしまった日米安保を、そんなに杓子定規な解釈で直ちに廃棄とはいかないことも理解できる。何よりも、国際社会でのアメリカのやり口からして、それはあまりにも危険すぎるといえる。現在の日本を軍事的に侵略することができる最有力の国は、朝鮮民主主義共和国でも中国でもロシアでもない、紛れも無く米国である。日本政府が「反米」の姿勢を鮮明にするようなことがあれば、クーデターを含めたあらゆる工作をするだろうし、条件さえ整えば直接の軍事介入も辞さないであろう。アメリカという国が、そのような「無法者国家」であることは、歴史が証明している。
 今回の民主党の置かれた状況は、そこまでではないとしてもその筋からの工作の対象とはなっていそうである。直接間接に手が打たれたことであろう。本来であれば、日本のマスメディアはそのことをこそ暴くべきであったと思うのだが。むしろ、コントロールされていたのであろう。韓国の哨戒艇の事故の報道でも、沖縄の基地が必要であるとの情報操作をしている。この事故がかりに魚雷攻撃によるものだとしても、冷静に考えて普天間基地の機能を沖縄に残す理由とはなり得ない。
 鳩山氏は、民主党両院議員総会での挨拶からしても、自主防衛論者のようで、米軍に変わりうる自国軍の強化が「理想」のようである。それはそれで警戒しなければならない。戦前・戦中のような威勢だけの良い日米決戦など願い下げである。掲げる理想は、9条に明記されている。
2010.6.15

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地球温暖化への懐疑論について

 いつも先生の切れ味鋭い論説を楽しませてもらっている、反戦情報の読者の一人です。 さて、このたびの「環境問題を考える」の内容にいささか違和感を感じています。論の基本にあると思われる、環境問題が反論を許されない空気が醸成されている事に対する危惧は、理解できます。ファッショ的な発想につながるものに対する危惧として、同感します。
 今回の村上先生の論は「温暖化への懐疑派」の人たちの懐疑的論説に基づいておられるのだろうと思われます。米国のエネルギー産業がらみの科学者を中心に強力な懐疑論(温暖化は起こっていないとか、温暖化の原因はCO2ではないなど)が持ち出され、それを根拠にブッシュ大統領は京都議定書を離脱しました。当時においても、この論には無理があると感じていましたが、ともあれ一応科学的に別のモデルを持ち出して説明しようとはしていたと思われます。日本でも、米国のそのような論説に影響された学者の中に(気候変動等の専門外の)学者が「自分は真実が分かる」として、たくさんの本を書いておられます。それらの影響であると考えられますが、日本で温暖化の問題を詰めてゆくと大きなブレーキ(考えなくても良いといったブレーキ)がかかります。必要なブレーキはかけねばならないのですが、ブレーキをかける人たちが科学的に認識しようとそれなりの努力をしていないことが残念です。(一方で、声高に環境問題を説く人の中にもそのような努力を怠る人がいることも事実ですが)

 さて、日本での懐疑派の人たちは、エネルギー関係者(社)との癒着はなさそうに思います。(むしろ、CO2削減を主張している人の中に原子力関係との癒着を疑われる人がいるように思います)したがって、純粋に懐疑されているのだと忖度します。ただ、その論の建て方にかなり問題があると感じています。
 例えば、村上先生が取り上げられたツバルの問題にしてもそうです。先生は、海面上昇だけでは説明できないのではないかとの研究者の発言を紹介されています。他の要因も考慮しなければならないと言うのはその通りだと思います。ただ、このことでの「論戦」においては、懐疑派の学者が持ち出した、「この25年間ツバルでは海面上昇が起こっていない」という資料がスタートにあったようです。海面上昇が起こっていないのなら、当然他の要因があり、それこそが問題だからです。別の要因で起こっていることを、地球温暖化を説明する事象として使うのは、不適切です。当然、地盤沈下が疑われてもしかるべきです。しかし、持ち出された資料は、研究機関の資料でそれ自体はそれなりに科学的な資料であるにしても、海面上昇を正確に把握するには不十分な物であったようです。であるにしても、実はその資料を誤解無く分析すれば海面上昇が起こっていることが分かる資料で、その学者の読み間違いだったようです。(どうも当人は、その後も修正されていないようです)ツバル問題は詳しく無いのですが、地盤沈下については検討された結果、否定されていると聞いています。むしろ、開発の結果それまでに利用していなかった、低湿地の宅地利用等が被害の拡大を招いてしまったそうです。そもそも、以前から高潮等で洪水(珊瑚礁の上の大地には、高潮時には地面から海水がわき出してくる)は起こっていたそうです。ただ、そのような状況の自然環境の中で、十数cm(数十?cmかも、ここのところが不明なのです)の海面上昇と地域的な高潮がかさなることで、甚大な被害をよびこんでしまったということでしょう。さらにいえば、今後海面上昇は、規模はともかくまず避けようがないと予測されますので、被害はさらに拡大することでしょう。問題は、拡大の規模をどこまで押さえ込めるかだといえます。将来海面上昇が増大し、ツバルが水没してしまうような状況になれば、現在はツバルほどの臨界状況には達していない国々も甚大な被害をもたらすでしょう。これらの国にとって、警告として見ることは充分に意味あることと考えます。
 極地の氷山の崩壊の映像についての疑義は、分からなくはありません。氷河末端における崩壊は、温暖化が無くても古代から繰り返されてきたことだからです。しかし、海水温の上昇に伴う膨張と並んで陸氷の溶解が、海面上昇にとてつもなく「寄与」していることもまた事実です。現に起こっている崩壊部分も、温暖化が起こっていなければ、まだ崩壊していなかった部分であるわけですから、無関係な映像ではないと思います。さらに温暖化が進んでしまえば、極地の陸氷の急激な崩壊が起こる可能性が指摘されています。(あくまで、シュミレーションの一つですが、短期間にグリーンランドの陸氷が崩壊してしまうシナリオがあります。)いずれにしても、現在見られる崩壊がさらに加速化されることになります。
 
 温暖化やそのことによって起こるであろう事の確率についてですが、村上先生は万一といういわば言葉の綾を取り上げられています。万一は一万回に1回の確率を現すのだとすると(0.01%です、0.0001%は100万分の1です)、そのような確率での出現が予測される事象に対して、膨大な経費をつぎ込むことについて、本当にそれで良いのだろうかとのお考えのようです。日本における懐疑論者の一人である池田清彦氏の本を読んでみると、温暖化はそもそもヒートアイランド現象を読み込んだデーターによる誤解で存在しないし、CO2の温暖化効果は飽和点に達しており、これ以上いくら増えても温暖化はもたらさないとのご意見のようでした。このような主張が正しいのであれば、0.01%というのも想定しうる確率なのかもしれません。
 正直、池田氏の本はそれなりに面白いと思うところもあるのですが、仮にも理系の学者である人が、現時点においてもこのレベルを科学的であるとして、公表されているのを見て不審におもっています。マスコミ等の報道の中に、資料の読み違いなどの誤解に基づく内容を見つけると、ウソ呼ばわりしてはばからない人が、自身の誤解は指摘されても直さないのですから。この人の発想は「歴史修正主義」の人たちと、同レベルの論理展開であると見ました。すなわち、かなりの程度オーソライズされている内容の、部分的問題を見つけ、そこに懐疑を差し挟み全体を否定する。懐疑の部分に対して正当な説明がされても、スルーし続ける。その結果、社会の中に一定程度の影響だけは与え続けるわけです。
 現時点と、お断りしたのは、2007年のIPCCの第4次報告がなされた後という意味です。IPCCの第4次報告の基になるデーターは膨大で且つ専門的で、私などには読みこなせる物ではありませんが(知り合いの理系の学者は読んでいるようです)、政策決定者向け要約くらいには目を通しました。そこでは、池田氏当たりが懐疑した内容については具体的な研究資料においてほとんど論破されているからです。IPCCの報告書は懐疑派の学者も含めて世界中の科学者の検証を経ており、確率については言葉の綾とならないようにしっかりと定義してあります。池田氏が起こっていないという、地球規模の温暖化については疑う余地がないとしています。まあ100%です。平均海水面の上昇は100年間で17cm、1993年から2003年までの海面上昇は年間3.1mmです。10年間で3.1cmですから、このペースが続けば100年なら31cmになります。さらに加速されると予測されています。グリーンランドと南極氷床の海面上昇への寄与の可能性はかなり高い(90%以上です)。気候変動も明確で、台風等については数の変化は無いものの、規模の拡大が見られるとしています。今年日本には台風の上陸がありませんでしたが、そのこととも矛盾しません。地球温暖化が人為的温暖化ガスによってもたらされていることは、かなり高い(90%以上)等々です。
 村上先生もIPCCの報告書を読んでおられるだろと勝手に思っているわけですが、そうだすると万一に関わる説明にとても違和感を感じるわけです。ひょっとして起こるかも知れないから、ではなく十中八九あるいはそれ以上の確率で起こると、懐疑論者の科学者も入った上での、確認なのですから。言い換えると、ひょっとして起こらないかも知れないといっているのですから。
 なお、池田氏によれば、平均気温が6度くらい上昇しても、人類が絶滅するわけでもないし、日本は何も困らないというような表現をされていたとおもいます。確かに、全面核戦争のような形での、人類の滅亡はないだろうと思います。しかし、6度も上昇するようなことになれば、縄文時代の地球規模の温暖化(CO2の増大とは別の要因です)を、遙かに上回る事態が・・・数千年ではなく数百年(悪くすると100年)で起こってしまうのです。ちなみに縄文海進で現在より3〜5mの海面が高かったと貝塚などの標高から推測されます。この程度であれば、「日本沈没」とまで言いませんが、その被害の大きさは、驚異的な事になってしまいます。

 米国のブッシュを取り巻く科学者を含めて、声高な温暖化懐疑論は消えたようです。これは、ファッショの結果でしょうか。私にはそう思えません。少なくともIPCCでの論議は、極めて民主的というか合理的で科学的です、反対論も含めてかなり広範な検討がされていいると思えます。自分たちも参加して、相応の検討をしたものに、その検討より低次元のクレームはつけることができなくなったのだと思います。今後彼らが目指すのは、米国の「国益」を擁護するための条件闘争ということではないかと思います。日本の懐疑論者の人たちは、気候変動の専門外と言うこともあり、この検討には参加していないことが、知らん顔を決め込むことのできる要因だと思います。 

 村上先生が最終部分で、書かれているようにこの問題への唯一の解は存在しません。多くの人にとって不満を減らす解を見つけなければならないと思います。しかし、問題が存在しないから解も必要ないという、確率は極めて低いのです。
 そして、どのような解を使うかはともかくも、傍観すれば人的・経済的被害は甚大であることが予測されると思うのですが。
 もちろん、温暖化問題や環境問題は錦の御旗で、何を置いても従えというのは、ダメだと思っています。

別件ですが、シックスナインについても、疑義を感じています。100%安全等という人は、科学者としていかがなものかと思うわけですが、その点シックスナインは、とりあえずOKです。しかし、技術の将来的なリスクでそのようなとてつもない数字を持ち出すのは、ホンマかいなと思ってしまいます。アポロ計画では、シックスナイン(100万回に1回)が起こってしまいましたから。まあ、起こらないといっていたわけではないのですが。原発についてもそうです。シックスナインとまで、主張するのであれば、疑義を持つ者たちとの共同作業を経てでないとおかしいと思います。まあ、原発の安全性についての懐疑派が加われば、シックスナインの主張はできなくなるでしょうが。

東北大学 明日香壽川 氏などがネット上にあげられている、
「地球温暖化問題懐疑論へのコメントVer.2.4 」
というのがありました。
すでに、読まれているのかも知れませんが、日本における懐疑論に対しての反論コメントです。私には、実によくできた内容だと思えるのですが。

 IPCCの内容が正しい科学的に正しいとすると、それを素直に読んだマスコミ関係者や政策決定が本気になるのは当然のことだと思っています。(まあ余り票になりませんから・・・当然ではない行動をとる政治家も少なく有りませんが)。ところが、ネットにはIPCCの結論が陰謀だという意見も見られます。もしそうなら、大変な事です。ただ、世界中の多様な国の数千名もの科学者を騙す(強要する)陰謀が可能とは思えません。私個人としては、IPCCの問題の詰め方は信頼に値すると思っているわけです。ただ、あるいは村上さんはIPCCの検討の仕方等に根本的な誤りなり欺瞞があることを、知っておられるのではないかとも思ったりもします。もしそうであれば、是非ご教授ください。 
2008.12
地球温暖化問題懐疑論へのコメントVer.3.0
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/labs/china/asuka/_userdata/kaigiron_ver30.pdf

※その後、より詳しく読みやすくした書籍が出ています。Webで読むことができます。
「地球温暖化懐疑論批判」
http://www.ir3s.u-tokyo.ac.jp/sosho

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失言」よりも深刻なこと

 中山大臣が「失言」をして辞任の最短記録を作った。その内容は、あまりにお粗末で世間が「東大」卒に期待するであろう、聡明さは微塵も感じられない。当然、「学力テスト」をすれば、かなりの高得点をあげることのできる人なのだろうが、・・・。「単一民族」にしても国会決議をしたばかり。「成田」にしても成田の農民が国家の施策によってどんな犠牲を払わされてきた人たちなのか、政府として謝罪しなければならなかったか、理解できていなければならないこと。大臣にまで上った人なのだから、政治家としての処世術はあるのだろうが・・・情けない。失言の多い麻生総理にまでも、切って捨てられてしまった。要するところ、学力テストのようなもので計れることには、限界があるという、常識的な結論を再確認することになった事件でもある。
 さて、この人、日教組がよほどお嫌いらしい。この世の中で、うまくいかないことは何もかも、日教組が原因だとおっしゃる。敗戦後の日教組の歴史を振り返れば簡単に分かることだが、近年の日教組の組織率も闘争力も残念なことに低下している。因果関係があるなら、よほど世の中がよくならなければならない。どんなことにも、論理的な思考のできない人だ。彼が問題だとする「自分さえよければという風潮」にしても、行きすぎた競争原理や市場原理主義にその原因を求めた方が妥当であろう。しかし、本人が「勝ち組」になりたいだけの政治家では、問題の本質を正すことができるわけもない。そこで、責任を日教組に転嫁してごまかそうとの政治的判断なのであろうが、なんとも浅はかである。
 それこそ「郵便ポストが赤いのも・・・」といったたぐいの、非科学的・非論理的な人が、学力低下も日教組のせいであることを証明してやろうと、もくろんだのが学力テストの実施であったと、自慢げに告白している。(客観的には、日教組の組織率と学力テストの間に中山氏が想定していた相関関係は無く、自爆しているのだが)
 もちろん、文科省は学力テストの目的としてそれらしいものを別にあげている。しかしながら、学力テストが個々の児童・生徒の学力の向上に活用される形跡はほとんどない。結果を、その後の教育に生かすようなシステムになっていないのである。その訳が、今回明白になったといえる。そもそもの目的が、学力の向上では無かったのである。
 恣意によって、教育の「中立性」を犯し、授業時間の確保を声高に叫びながら、授業を奪い、日本中の児童・生徒や学校関係者に多大な負担をかけているのである。行政の無駄遣いを無くすと言いながら、ばく大な税金が浪費しているのである。
 これまでであれば、このような批判をしても、それは邪推であるとかわされていたことであろう。しかしながら、他ならぬ政策決定時の文科大臣であった人の発言である。したがって、文科省が公式に色々と説明している理由は、結局のところつじつま合わせの理由でしかない。害毒を垂れ流している学力テストは、即刻中止されるべきである。
 中山氏は「失言」故に、辞任が求められたとされている。しかし、むしろ上記のような恣意的な権力行使こそが、大臣にふさわしくない行いと考える。大分の教育委員会の贈収賄事件(中山氏によれば、これも日教組の責任になる)にしても、権力を恣意的に行使することによって起こっている。権力の座にあるものにとって必須の、自制心が欠落しているのである。そのような自制心の欠落している人物は、政治的な立場以前の問題として、権力の座にあるべきではない。となると、むしろより問題なのは、自制心を持ち合わせないが「失言」はしていない輩がまだまだいることであろう
2008.10.02

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「是正」指導から10年


 10年前、ヒロシマの教育に対して、文部省(当時)による「是正」指導なるものが行われた。それは、嘘と欺瞞に充ち満ちたもので、今もなお、ヒロシマの教育に重大な害毒を垂れ流し続けている。それはどのようなものであったのか、分析してみたい。
 そもそも「是正」するとされたことは、その必要がさらさら無いものであった。「是正」の中核は、入学式・卒業式に日の丸を掲揚し、君が代の斉唱を強制しなさいというものであった。エスノセントリズム(自民族中心主義)に蝕まれた人々や、規則に縛られる人たちには、差別的内容の歌詞を持つ「君が代」の強制はすべきでは無いとする私たちの思いは理解できず、不当であると感じたのかも知れないが・・・・。
 また、文部省の指摘には、「教員の勤務管理ができていない。」ということもあった。教員が勤務時間等に組合活動をしている、さぼっているというのである。しかし、当時から法定の勤務時間を遙かに超える超勤実態があり、そのことを知りながら放置していることの不当性が多くの裁判を通じて明らかになった。それでも学校教育のスムーズな運営をのため、超勤をやめてしまうわけにもいかず、その代償の一部として、勤務時間内の組合活動を、県教委も管理職も合意の上で、容認することにしていただけである。その何倍もの超勤があったことは、現場の校長はもとより県教委にとっても周知の事実であった。「ノーワーク、ノーペイ」と賢しげに主張されたが、その実態は、働いた事に対して支払われていない状態だったのである。そして、「是正」を経て、現在どうなったか。勤務時間内の組合活動は、見事に締め出された。となれば当然、教員の超過勤務も是正されなければならない。ところが、昨今の管理強化に伴う無駄な文書主義の横行は、膨大な文書作成時間を付加している。その結果、法定労働時間を、遙かに超える超過勤務の山である。「セブン・イレブン(朝7時〜夜11時までの勤務)」が、あながちオーバーでもない学校や教職員がいる。「風呂敷残業」も日常茶飯事化している。そのことについて、「法令遵守」を言いつのる県教委も校長も、知らない振りである。多くの高校では、勤務時間が終了すると、校長はとっとと退校してしまう。超勤の実態を見なくて済むようにである。
 常軌を逸した超勤の結果、健康被害が続出していることは、現場の教職員はもとより、マスコミも含めて、自明のことなのに、管理職も、県教委も知らないというのである。法律でもない学習指導要領の中の、一行が守られていないと目くじらを立てる人々が、労働基準法をはじめとする、管理部門に遵守が義務づけられている多くの法律を公然と破る。欺瞞そのものである。
 実のところ、広島県で「是正」の名の下で行われてきた事のほとんどは、文科省の「指導」とは無関係に行われているのである。一部の政治勢力や個人の恣意を、これに迎合する県教委が「是正指導」を騙って行っているだけなのである。そのやり方は、戦前において「天皇」を持ち出すことで、反論を封じたのと同様の手口、同じ精神構造である。そして、天皇の名によって行われた戦争遂行の多くは天皇本人の意図とは異なっていたとされる事まで類似するのである。
 その結果、とりわけ深刻なのが、人権を取り巻く状況である。広島では、差別の問題を「かわいそうだから」などという発想ではなく、差別者も被差別者も解放されるべき主体であるとする、教育を創ってきた。それは、時代を先取りし、国際的な人権尊重の潮流に沿うものであった。しかし、それが理解できない一部勢力にとっては、不当で偏向していて、正さなければならない事だと思えたのであろう。ありもしない「是正」を持ちだして、問答無用でつぶした。
 こうして、県内のある大学が入学生を対象に行った調査によると、他県の出身者に比べて、広島県の出身者は、人権教育を受けた記憶のない者が格段に多くなっている。広島県においては、多くの学校で人権教育が抑圧され消されていったからである。何故、実施してはいけないのかと問うても答えは「是正指導されているから」の一点張りであった。その上、校長権限の強化と称して、疑問を投げかける者はそれだけで非協力的と見なされ、報復人事の的にされるのである。
 また、県立高校の定員内不合格(定員に余裕があるのに不合格にしてしまう)の激増にも現れている。多くの県では、そのようなことは多額の税金を投入して行っている公教育で許されないこととして、ゼロあるいは、諸般の事情でやむを得ず一桁といったところである。しかし、全国で2番目に多い鹿児島県では約100名にもなる。そして、「是正」以前はほぼゼロであった広島県では、なんと約500名も出して平然としている。不登校や情緒障害や知的障害や身体障害を持つ生徒は、面倒な生徒として排除して恥じないのである。これも、「是正指導の成果」なのか・・。
 もちろん、文科省は人権教育つぶしや定員内不合格を指示していない。それどころか、文科省も国際的な人権尊重の潮流の影響を受けて、遅ればせながらかつての広島県の解放教育が目指していた思想性に近づいてきている。そして、『人権教育の指導法のあり方について(第3次とりまとめ)』を示して推進を具体的に指示してきている。これまで広島県教委によれば「してはいけないと指導をされている」はずのことを、するようにと指示しているのである。大切なことだから、総ての学校・教職員に徹底するようにとの指示も添えて。
 こうした指導を受けて、「文科省の是正指導」を錦の御旗にしてきた広島県教委はどうしたか・・・。無かったことにしようとしているのである。文科省から届いたはずの文書を、管理職がその存在すら知らない学校がある。個々の教職員に至ってはなおさらである。それを、県の主体性であるというならそれもよかろう。自らの言葉と論理で、文科省の指示には従えない理由・ないがしろにする理由を説明をするがよい。しっかりと議論をしたいものである。
 どのように県教委が言いつのろうが、二度と再び戦場への道を子どもたちに指し示さず、二度と再びいじめや差別の道を指し示すことの無いように、自らの人権感覚を養い、それを展開することは、教育公務員としての責務であると考える。幸い、時代がかつての広島県の状況に追いついて来つつある。文科省の文章や国際的な宣言・条約をてこに、人権教育の実施をせまろう。やってはいけないというのであれば、説明を求めよう。よもや文科省のやれと言っていることを、させない理由に「是正指導」を持ち出すことはないであろう。まずは、他府県並に人権教育の状況を取り戻したいものである。その一翼を、私自身も担うことができたらと思う。

2008.6.1

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教育再生会議は何が為したいのか

 教育三法の改悪が為されてしまった。法案提出のベースとなったとされる「教育再生会議」の提案からして、すりあわせ不十分で提案相互の矛盾が目立つというのに、またも強行採決である。教育に対する真摯な思いや、教育に権力を行使することに対する畏れは微塵も感じられない。
 そもそも、日本の教育のどこがどのように壊れているのか、その原因は何か。提言の分析は思いつきにすぎない、自分では無い誰かに責任を転嫁し、挙げ句の果てに特定の集団の政治的意図を押しつける。責任を押しつけた先の一つが「ゆとり教育」である。いわゆる「ゆとり教育」の進め方にも問題があったと考えるが、教育再生会議の提言は、状況をさらに悪化させることになるであろう。
 提言は、ゆとりをやめて、子ども達を競わせれば状況が良くなると思っていようだが、はたしてそうなのだろうか。競争は常に進歩をもたらすのであろうか。
 ソ連にしろ中国にしろ、社会主義的平等を目指した国々では、当初飛躍的発展をしている。計画経済がうまくいっていたのは、人々に社会を良くしたいという願いがあり、そのことが自身の生活も周囲の生活も向上させているという誇りが、「やる気」を生みだし社会に活力を与えたからではないだろうか。ところが、行き詰まってしまった。これは、計画経済という権力の集中しやすい体勢の中で、現場の状況が計画の作成者に届かなくなったことにあるように思う。官僚社会の中で、権力者が喜ぶような報告するものが評価され、競争に勝ち残るようになってしまったからではないのか。
 その典型が「大躍進」時代の中国である。計画を練る者の所には、誇大な報告がなされ、権力者は『裸の王様』となりはて、上も下もそれを正す、モラルが消失してしまい、どんどん現場実態とかけ離れた計画がまことしやかに立案され、状況は加速度的に悪化する。(確認しておこう、この時点でも出世競争なら熾烈な競争が存在していたのだ)
 中国は市場経済の導入によって、とんでもない経済格差や拝金主義という社会的矛盾を生み出しつつも、飛躍的な経済発展をしている。経済成長こそ正しいことと思う人たちは、だから社会主義はダメで資本主義が勝利したと短絡する。しかしこれは、利益や価格によって意欲を高めるという側面と共に、現場の状況を反映させる仕組みとして市場経済が機能していることが原因であると思う。自由な市場での売買は消費者のニーズを価格という形で反映させ、少なくとも、前記のごとく裸の王様状態になってしまった権力関係よりは遙かに良く機能しているということであろう。
 振り返って、「ゆとり教育」で目指した考え方そのものは、それほど悪くはないと思う。しかし、政策の結果として現場で何が起こっているかを、正しく伝える道筋をつぶしてしまっていたことが問題だ。建前ではなく、現実に起こってくる不都合を進言するものが、「お上に楯突くもの」として排除される。広島県においては、10年前の文部省のいわゆる「是正指導」以来。YESマンのみが、管理職に登用され、お上の思惑と違うことを進言するものには、不利益処分があいつだ。その結果、「是正指導」以前の校長には、教育的信念や志を持った者が多かったのに、現在の広島県では激減した。志を持つ校長も、多くの場合その志を隠して、ひたすら指示命令に従うだけの存在を装うことで、その地位を守る戦略を採っている。
 現場の「やる気」の問題は、教育再生会議も気にしているらしい。「やる気」向上のための方法は、賃金を上げ下げすることのようだ。賃金の格差で競争をあおり、やる気の原動力にしようと言うことらしい。この方法は、お金をたくさんもらえるのだったら頑張ろうという、委員の皆さんの価値観にそうのであろう。しかし、現在の状況で、お金で釣るようなことをしても、中国の市場経済導入のような成果は期待できない。「大躍進」時代の、出世競争と基本的に同じで、立案者に都合の良い報告だけがやたら上がってきて、いわば自画自賛することが得意な者に多くの「お金」が割り当てられることになる。「できたできた」の素晴らしい報告にも関わらず、現場は疲弊してゆく。
 提言によりば、「子どもと向き合う時間を大幅に増やす」のだそうである。大変結構なことである。現場の感覚では、(広島県に限らず)全国的に教員(とりわけ小学校)が子どもと関わる時間が、悲しいまでに減少しているのである。委員の中に現場の実態を知っている人も数人入っておられるので、彼らの良心がこの提言を入れさせたのだろう。しかし、どうやって具体化させるというのであろうか?
 そもそもなぜ、子どもと向き合う時間が少なくなってしまったのか?「ゆとり教育」で授業数が減って、教職員は随分楽をしているのだろうという世の中一般の推測とは裏腹に、近年の学校の多忙化は目を覆うばかりである。試しに、近くの学校の様子を、気をつけて見てみればいい。残業手当が存在せず、残業を命じることのできないはずの学校の職員室の灯りが遅くまで灯っていることだろう。連日「セブン・イレブン(朝7時〜夜11時)」という学校も、言葉の綾でなく存在する。相対的に早く帰っている教職員も、大量の仕事のお持ち帰り(風呂敷残業)だ。プライバシー保護の関係で成績処理などの仕事を家庭に持ち帰ることは規制されているのだが、現実にそのことが守られている学校など皆無であろう。
 多忙化の原因の一つが、観点別の絶対評価である。この方法は、相対的な順位を争うことになる相対評価に比べて、それぞれの子どもの持ち味を見ることになるなど優れた面が多い。しかし、客観的な(他人に示せる根拠を要求される)絶対評価をすべての子どもに対してし残さなければならないとすると、どれくらいの事務量が発生したか想像してみて欲しい。結果として、子どもと話したり、遊んだり、相談したりといった、子どもと向き合う時間が大幅に削られる。こうしてより多面的に子どもを見ることを目指して取り入れられたはずの制度が、現場では逆に機能している。それなのに、そのことを職を賭してまで、教育委員会にもの申して、改善しようという管理職は少ない。文科省にもの申す役人もいない。そのような志を堅持する人は、管理職になれなくしている上に、現場の本当の姿を知るべきであると考える官僚も少ない。政権政党の政治家にいたっては、権力の維持しか興味がないものが大半である。
 提言を実施しようとすれば、さらに現場は多忙化してしまうだろう。できもしない仕事を押しつけられた現場の対応策は、2つしかない。「ごまかす」かできないことはできないこととして進言するかである。提言は、後者の選択を奪うような内容になっている。であれば、前者の選択しかなくなる。そのようなことは、誰も望んではいないはずなのだが。
 ただ、「諸悪の根源」を再生会議に押しつけて口をぬぐうつもりはない。これは、再生会議が掘っている落とし穴には、はまらないぞとの決意である。どのように、弾圧を受けじゃまをされても、我々はしたたかに授業の中で・学級の中で・職員集団の中で・世間の中で「志」を保ち続ける。時代を作るのは、そのような存在であると信じて。

2007.6.28

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集団自決この明白な史実を操作する輩(軍の関与を否定しようとしたことについて)

 今回の、事件は詰まるところ、「沖縄戦において、日本軍による住民虐殺や集団自決の強要」の有無ということになる。ただ、今回の文科省の検定意見も、さすがに無かったとは強弁できていない。しかし、「私は、集団自決を命じていない」という元軍人がいるから、その存在の真偽が定かでないことになるというのである。従って、「正しいこと」しか載せられない教科書からは、「誤解が起こらないように」その記述を削除すべきで有るということなるらしい。
 さすが、中立を旨とする文科省の面目躍如と、ほめてもらいたい(誰に?)のであろうが・・・。欺瞞そのものである。
 たとえば清水書院の日本史Bには見本本に、「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」となっていたのに、検定意見がついて、「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と変えて、OKが出たわけである。もちろん、変えなければ検定不合格になる=教科書として出版できない、という脅しが控えているわけである。いったい、どんな「誤解」が生じるというのか。「誤解」が生じているとしたら、「真実」は日本軍に集団自決を強制された人は存在しなかった。もしくは、その可能性があると言うことになる。このことは、いかなる論理展開から可能になるのか?
 「あなたの命令で、集団自決することになった」という証言にたいして、当の軍人が、そのような命令を出した覚えがないと言っている。この裁判が係争中であることは、事実である。しかしそれは、@その人がそのような命令を文書もしくは口頭により「自決命令」を出していた(のに嘘をついている)、Aその人は口にも出していないが周囲のものがそのように感じて強要した、B部下の軍人がその人の命令であると偽って周囲に命じた、C自決しろとは言わなかったが(いったい何に使わせようと?)手榴弾等を配らせた・・・等々の総てを否定しているとはとても思われない。
 総てが、否定されることはないであろう。ましてや、集団自決事件や軍による虐殺は一カ所で起こったのではない。沖縄戦中、日本軍の支配下の各地で起こっている。検定意見はそれこそ「誤解」でしかない。
 こういった、見え見えのごまかしは過去にも、何度も行われている。「自由主義史観」の藤岡氏などの得意とするところで、彼らの論理にかかれば、「南京大虐殺」も「朝鮮人の強制連行」も「従軍慰安婦」も総て幻、でっち上げになってしまうのである。以前のテレビ番組で、「従軍慰安婦」はでっち上げだと主張していた「研究者(?)」が、本当の研究者から具体的で詳細な事実を突きつけられると、「何で日本人のあなたがそんなに詳しいのか?」「あなたはおたくか?」・・・という反論(?)をして、この手の論理をもてあそぶ輩の、研究の底の浅さを明白にした。この手法、実は「自由主義史観」の人たちのオリジナルではない。ほぼ同じような理屈で、ユダヤ人に対するナチスの「ホロコースト」も幻になってしまう。もちろん、まともな研究者が相手にするものではない。
 しかし、政府は、与党支持者も含む11万人もの参加者を結集という沖縄県民の怒りにふれてたじろいた。伊吹文科大臣(当時)は、「軍の関与」を否定できないと認めた上で、政治家が検定に「介入」したことが前例となってはいけないから、自分から修正させることができないと、これまた中立を装い、責任を逃れるばかりか正すための行動から逃げる。
 なるほど、教科書の記述内容に、政治家それも政権政党や内閣が口を挟むのはふさわしくない。(このことは、紛れもない事実だ)しかし、これまで幾度口を挟み介入してきた政治家がいたことだろう。言いたい放題に言い放ち、圧力をかけまくって、マスコミや出版社に政治的影響力をふるいまくってきたのではないか。あまりにも厚かましい、言い草である。
 ちなみに、いかなる影響力のものにか、読売新聞は、県民大会の参加者11万人という主催者発表の数字に対して、11/3付けの社説で「しかし、県民大会の俯瞰(ふかん)写真に写っている参加者を1人ずつ丹念に数えた東京の大手警備会社は、1万8000〜2万人と指摘している。主催者発表の5分の1以下だった。」というクレームをつけている。5倍以上も水増ししているというのである。それも、読売の沖縄支局の現地取材に基づいてと言わないところが、巧妙だ。彼らのやり方は、このように、なにげに疑問を呈するところから始まる。主催者発表の根拠について、支局等を通じて裏付けの取材をした風もない。そのことの真実を探ることが、ねらいなのではない、11万人集会という強烈なインパクトを薄めることができさえすればいいのである。できることなら「幻」にしたいのであろう。
 日本の教科書は、「教科書用図書検定調査審議会が教科用図書検定基準に基づいてその内容を審査します。審議会の提言に沿って、文部科学省は、ふさわしくない文言について再度検討するように出版社に伝えます。(外務省HPより)」なのだと、国の内外に向かってアピールしている。検定意見は、時の政府の政治的意図とは関わりなく、純粋に科学的・学問的に行われていて、政府に都合が悪くても、口出しできないのが日本の教科書検定システムだと主張している。
 ところが、すでに明らかになっているように、審議会のメンバーの中に沖縄戦の専門家がいない、その上「この検定意見について論議もしていない」と当事者が証言している。「議論もせずに」が事実とすると、誰が言い出したのか?当然、文科省の官僚であろう。文科省の官僚の「思いつき」は、審議会を通すことで権威づけられ、文科省大臣でも内閣総理大臣でもクレームをつけることあたわざるものになるというわけである。専門外のことについて、研究者の研究内容を精査することもなく、自分たちの考えであると検定意見をつけると言うこと自体、何とも無責任きわまりない。
 そもそもの「思いつき」には、政治的圧力がかかっていることは、想像に難くない。二重三重の欺瞞である。
 このような、欺瞞によって、政治的責任の所在を曖昧にすることは、日本においてよくとられる。戦前の、天皇の命令によるとされたことのほとんどが、このようになすり替えによって、軍人にも官僚にも天皇にも、責任が無いことにされ。しかも、誰もそれに抗うことができない。むろん、それは表面上のこと、作成する官僚なりに圧力をかけることができる存在(人・組織)にとっては、いとも簡単に操ることができるのだから。

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