「旅の絵本を遊ぼう」7-5
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場面15兵馬俑
0)旅人は 兵馬俑の発掘現場にやって来ました。《世界文化遺産/「秦の始皇陵」と兵馬俑坑1987年登録》
秦の始皇帝陵(西安市から東へ35キロメートル、驪山(りざん)の北)の東1.5kmで発見された兵馬俑坑だと思います。この兵馬俑坑は、1974年になって地元の農民が井戸掘りのさい偶然に発見されています。発掘を進めると、その規模は2haを越す広大な面積に、武人の俑が約8000体も見つかっています。その他、戦車が100余台、陶馬が600体見つかっています。その他に武具もでており、空前絶後の規模です。一体一体の兵馬俑は、型を使ってなくて一体一体異なるのデザインで、すごいエネルギーの像です。
発掘現場をそっくり巨大な建物ので覆い、保存してあり、その様子が一般公開されています。
参考:兵馬俑大博物館
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/heibayou/toppu/top.htm
1)左上 まさに発掘中です。
実は、地中に右の写真のように埋められたものが発掘されたのだと思っていましたが、写真でも発掘途中の奥の方にあるように、発見された兵馬俑は、長い年月の間に倒れ土に埋もれ、その多くは壊れた状態で出土するようです。発掘されると、三次元のジグソーパズルを解くようにして組み立て直します。
そして、発掘直後の像は彩色された色が残っているものがあるそうです。ところが、空気に触れるとその色は瞬く間に褪色するのだそうです。そこで、あえて発掘せずに残してあるようです。将来、色を褪色させない技術ができる事を期待して良いのでしょう。発掘直後に写真に撮り、それに基づいて新たに彩色するということも考えられると思います。
2)手前には、発掘された兵馬俑が復元されて並べられていて、研究者が細部を見ています。等身大の像にしては、人間の方が小さいようです。始皇帝当時の秦の人は大柄だったのでしょうか?出てくる人骨からするとそんなことはないようなので、実際の人よりは少し大きめに作成されたようです。
そもそも、兵馬俑のようなやり方になる前は、本当の人を生き埋めにしていたようで、それがこのように兵馬俑で代用するようになったわけでしょうから、亡き皇帝を護る選りすぐりの軍団をあらわすためには、一回り大きめに作る方が迫力あると考えたのでしょう。(そのことを考慮しても、安野さんの絵は多分さらに少し大きめに描かれているのだと思います。)いずれにしても、殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とするのは、文明の進歩ですね、始皇帝といえば血も涙もないイメージですが。
兵士に比べると、馬の大きさが少々小ぶりに見えます。この当時の馬は、人間に比べて小さめだったのか?兵士を大きく作ったので、相対的に小さくなってしまったのか?どちらなんでしょう?ちなみに出土する馬の高さは1.5メートルで西域の大宛の馬に似て、足が速いと言われています。
兵馬俑の材料はこの付近の粘土です。これに、彫刻して窯に入れて焼いて作られています。
3)小さな橋のむこうがわ 台車に乗せて3人がかりで引っ張っているのは何でしょう?
4)右の方では、荷車に乗せた物を押したり紐で引いたりで、2人がかりで運んでいます。
5)テントの所では、例によって作業員の人たちのために食事が用意されています。エプロンをした女性達がかいがいしく働いています。かまどには、薪がくべられ既に火が入っているようです。
6)橋の手前の人たちは見学者のようです。見学の人は橋の向こうには行かせてもらえないようで、こちら側でガイドさんの説明を受けています。
7)机について座っている人は・・・見学料の徴収係でしょうか?それとも、現場の事務官?
8)右端では、6人の作業員が、武士俑を横にしています。
9)右下 特別大きな武士俑を、間近に見ている人がいます。
10)塔が建っています。これは、兵馬俑があるのは西安市の慈眼寺にある大雁塔です。
西安は歴史的には唐の都長安です。この唐は、西遊記で有名な三蔵法師(玄奘三蔵)が、インドから持ち帰った経典や仏像を納めるために、時の皇帝に頼んで慈眼寺に建てた塔がこの大雁塔というわけです。時に西暦652年。創建時の大雁塔は5層の塔だったようです。その後、武則天が建て直して10層にしましたたが、戦乱で壊れてさらに改築、現在のように7層になったようです。高さ64メートルです。大雁塔は昔から西北方に傾斜してましたが、地下水の吸い上げによる地盤沈下のためさらに傾いたようです。安野さんもしっかり傾けて描かれています。
11)左下 遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居であるパオ(包)があります。モンゴルではゲルがあります。
かなり大きなゲルです。西安は西域が近く、遊牧民の生活も近いということをあらわしているのでしょう。
12)旅人のいる 川で洗濯している女性がいます。
13)洗濯物を干している女性がいます。あらっている人とは別人でしょうか?それとも時間的にずれているのかな?
場面15に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 39人( 1397人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 22匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 0頭( 55頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 0羽( 81羽) |
荷車 | 2台( 31台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 1艘( 66艘) | 洗濯物干し | 1カ所( 19カ所) |
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場面16水庫(ダム)
0)旅人は ダム(水庫)のある場所にやってきました。
モデルとなるダムが中国のどこかにあるはずです・・・・。
中国陝西省咸陽市(西安の北隣)にある恵渠(ジンケイキョ)のダムではないかと思います。この水利施設は鄭国渠(テイコクキョ)を継承する現代の施設とされています。
鄭国渠は、中国古代の3大水利施設の1つです。秦が中国全土の統一を目前にした紀元前246年に、韓の技術者鄭国の指揮により起工し、十数年の歳月の後に完成したと言われています。
鄭国は、実のところ韓のスパイとして秦に送り込まれたのです。秦の軍事力に恐怖した韓は、巨大土木工事をさせることで、秦を疲弊させようとしたのです。秦はそのことに気づきますが、工事は続行しついに完成させてしまうのです。その、潅漑面積は4万とも6.7万haともされる広大な面積。 そのアルカリ性土壌が日照りにも多雨にももちこたえ、よい収穫の得られる良田に変わったのです。その生産性は、その後の秦の中国統一に十分な物質的条件を提供することになってしまったのです。韓のもくろみは全く逆に働いたのです。また、これにより、中原地域の農業生産に革命をもたらしたと言います。(現代の恵渠による潅漑面積は、8万haだそうです)
始皇帝の兵馬俑に続く場面に、このダムが選ばれたのは、鄭国渠と始皇帝との関係を考えてのことだったのです。
2)山をうがって放水路から水が出ています。
3)放水路の左にダムの一部が描かれています。
4)旅人は これ以上船では行けないので、いつものよううに旅の友である馬を手に入れる交渉をしています。
デンマーク編で旅人が馬を手に入れたのがシーン4の円形教会の場面で、それまでの旅の絵本でもっとも後のシーンでした。そして・・・この中国編ではこの場面16になってやっと馬を手にいれます。最長記録ですね。
5)小さな吊り橋が架かっています。橋桁の所では男性が2人何かしています。魚とりでしょうか?
6)岩山を登っている人がいます。なにをしているのでしょう??
7)右下 沢山の巣箱を積み上げて、養蜂をしている人たちがいます。顔にちゃんと網をかぶって作業をしている人もいますが、つけずに作業をしている人もいます。
巣礎枠(すそわく)を取り出しています。養蜂箱の中にはハチたちが蜜を貯めやすいように巣礎枠を何枚も入れておきます。ハチがふえてくると、自分たちで巣を拡張してゆき、蜂蜜を貯めてゆきます。これを、取り出して遠心分離で蜜を取り出します。ハチに刺されることに耐性がある人は、網をかぶらずに作業をすることがあります。ちなみに、巣箱から取り出すのは本来とても危険です。社会性のハチであるミツバチは巣を護るためなら自分たちの命さえ捨てて攻撃してきますから。・・・どうして、刺されないのか。実は、煙をかけるとハチはおとなしくなるのです。
8)小さな荷車を馬で引いている人がいます。荷物は何でしょう?
9)馬の人と、スコップを持った人が話しています。スコップは、何に使っているのでしょう?
10)後ろでの人の周りに、ニワトリが2羽います。
11)小屋の裏には、マキが積んであって、薪割り用の斧が台に突き刺してあります。
12)ここにも、洗濯物が干してあります。
場面16に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 15人( 1412人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 22匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 0頭( 55頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 2羽( 83羽) |
荷車 | 1台( 32台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 1カ所( 20カ所) |
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場面17嘉峪関(万里の長城)
0)旅人は 万里の長城の西の果てにある嘉峪関(かよくかん)にやって来ました。
嘉峪関は、万里の長城にある関の中で建設当時のまま残されている唯一の建造物です。《世界文化遺産/長城 1987年登録》
長城は、秦の始皇帝の時に作られたとされますが、現実にはそれまで燕・趙などの国々が北辺に築いていたものをつないで北方遊牧民族の侵略 に備えて作られた防衛施設です。現在の万里の長城は、その後、漢の時代になるとシルクロード方面に延長されたり、逆に内側に控えるなど、中国と北方騎馬民族との軍事バランスに基づいて必要なところに作られたので、複線的に存在します。現在見られる長城の多くは、元を北方に追いやった明が長い年月をかけて補強し整備したものです。ちなみに、清代になると北方民族との関係から長城の役目はなくなり放棄されています。
長城の最東端とされていた山海関は、「天下第一関」と称されます。これに対して、嘉峪関は「天下第一雄関」と称されています。
ところで安野さんは、その長さを2,400kmと書かれています。これは、単純に地図上で距離を測った数字のようです(2,700kmがよく使われるようです)。長城が単純な一本の線でないことを考慮に入れて計測すると、ととても長くなります。ちなみに以前の中国の公式の距離は、明代のものを計測して河北省山海関から西端の甘粛省嘉峪関までの6,352kmとされていました。2009年に4月に中国政府国家文物局と国家測量局は、2008年末までに実施した調査により、明代の長城の総延長は、8,851.8kmで、うち煉瓦などで造った「人工壁」は6,259.6km、残りはがけなどの天然の地形を利用した壁と発表しています。
この場合、東端は山海関からさらに東の遼寧省虎山ということのようです。西の端は・・・嘉峪関から南南西に7km行くと第一トン{土+敦}に至ります。そこは、討頼河北岸絶壁に接していて、こここそが西端と思えいます。ところが、漢代の長城は天然の要害を利用しながらさらに敦煌に続き、陽関を越えてさらにさらに新疆ウイグル自治区のロプノールにまで至ります。ここまで計算しているのだろうと思います。(※安野さんは陽関が西端であると書いておられます。)
安野さんは中国の百科事典には、総距離で約5万kmあると書かれているとされています。この距離は、歴代の王朝が建設した長城を全て加えた数字のようです。5万km・・・気の遠くなるような距離です。
1)李の旗を掲げた部隊が出撃しています。いつの時代か、西域経営に力を持った李という将軍がいたのだと思います。誰でしょう?
漢武帝は、初めて西域に攻め入った皇帝とされていますが、その中で李広利という将軍の活躍があります。しかし、これは李陵ではないかと思います。大将軍ではありませんが、寡兵をもって大軍と戦い、善戦するもののとらわれの身となったのです。これに激怒する武帝に対して、史記の作者司馬遷は彼をかばいます。ところが、そのことが武帝の逆鱗に触れて宮刑を受けて宦官となっています。
このことを、中島敦が李陵や司馬遷の内面を書き込んで『李陵』という作品にしていま
青空文庫で『李陵』を読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html
2)出陣してゆく部隊は、弓や槍を持つ騎兵が14人、荷車を引く人が3人です。この後にどのくらい続くのでしょうか。
3)城壁の上には、出陣してゆく部隊を見る兵馬のシルエットが見えます。あまりにも少ない兵力で、敵主力に向かうことになる李陵の部隊を、どんな思いで見送っているのでしょうか。
4)見えている楼閣は嘉峪関楼(左)と柔遠楼(右)だと思います。
5)手前の長城では、壊れた城壁を修理しています。
長城の基本部分は、版築(はんちく)という工法で作られています。この工法は、版築を作る部分に板で枠を作り、ここに土を入れてたたき棒や「たこ」と呼ばれる道具で土を付き固めたら、板の高さ一杯までつき固めたら板を継ぎ足して高くしてゆきます。
6)版築工法でつかう「たこ」があります。
たこ:土の締固め用具、経30*高さ60cm位の丸太に4本の取手を付け人力で持ち上げ落下させ突固める。
7)版築の上に煉瓦を積んでいます。
8)ロバを使って煉瓦を運んでいます。
9)レンガを積んで、話している人がいます。
10)レンガ造りの工場があります。
細かい粒子の黄土で作る版築は、相当の強度がでます。しかし、レンガで覆う事でさらに強度が増します。そして、木や石と違って製造可能です。
11)レンガ用の土を処理する人、できたレンガをつむ人、ロバにエサをやる人、皆せっせと働いています。
12)左下 パオ(包)があります。兵馬俑の場面についで2回目です。
ところで、長城内に遊牧民の使うパオ?遊牧民は、長城の外でしょう??と思っていました。所が、現在の嘉峪関の内部にもパオがたてられています。(※写真参照)明の時代の再現でしょうから、多分あったのでしょう。城内という移動の必然性のない所でパオを使用していたということは、ここらの気候風土にパオが適しているということでしょう。
13)親子が修復作業を見ています。
14)パオの手前に洗濯物があります。
15)洗濯物のある家の玄関には、対聯が掲げられています。
16)沢山の鳥が飛んでいます。砂漠の鳥はどういう鳥なのでしょう。
場面17に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 43人( 1455人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 22匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 28頭( 83頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 49羽( 132羽) |
荷車 | 3台( 35台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 1カ所( 21カ所) |
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場面18敦煌莫高窟
0)旅人は 敦煌・莫高窟(とんこうばっこうくつ/トンコーモーガオクー)にやってきました。《世界遺産/「敦煌・莫高窟」 世界遺産登録日:1987年》
敦煌は、嘉峪関からシルクロードを西へ数百km同じ甘粛省にあります。敦煌の町から東南へ25kmに莫高窟があります。鳴沙山東側の崖に掘られた石窟寺院で、南北約2kmにわたって石窟が並んでいます。窟の数は現在確認されている石窟の数は735ます。その数の多さから千仏洞とも呼ばれます。内部は石質が粗い礫岩で、四壁と天井を漆喰で塗り、塑造の仏像を安置しています。仏像類の数は2415体にもなり、鮮やかな彩色が施されています。
19世紀末、莫高窟に王圓録という道士が住み着いていました。彼は、偶然壁に塗り込められた秘密の小部屋を発見します。壁を壊して中にいると膨大な大量の経巻や古文書、書画の類が見つかったのです。これらの文書は、各国の研究者や探検隊に売られてしまい、世界中に持ち出されてしまいます。ただ、このことによって、「敦煌学」という学問が起こったのは、歴史の皮肉です。
1)9層の木造の高楼は莫高窟のシンボル的な建物です。大雄宝殿とも呼ばれる莫高窟最大の建物です。内部には莫高窟最大の塑像(弥勒仏像)があります。
2)大雄宝殿の左右には、町並みが続くように描かれています。もちろん、左右にも崖に掘られた石窟が続いています。その雰囲気が自然に町並みに表せるところが安野さんの技術ですね。
3)右下 ベンチに座ったおじいさんが3人。
4)男女の2人は、夫婦?恋人?
5)机を出している人の周りを5人の人が囲んでいます。何をしているのでしょう?又、占い師でしょうか。
6)長目の服の人は僧侶のようです。
莫高窟は、仏教遺跡ですから、僧侶がいるのはごく自然ですね。
7)大雄宝殿の軒下に座り込んでいる人たちがいます。観光に疲れたのでしょうか。
8)男性が2人、手前の人は、腕にタオルのような物をかけていますが?何でしょう。
9)リュックを背負ったこどもたちが4人
10)なにか脇に抱えた女性がいます
11)男女のカップル
12)男性が一人と、杖をついた男性の2人連れ
13)3人の子どもを連れた人がいます。
14)莫高窟の額を掲げた門があります。
15)何か丸い物をぶら下げた土産物屋があります。売り物は何でしょう?
子どもが一人見ています。おもちゃのたぐいでしょうか。
16)大きな三角の傘状のテントの下で売っているのは、書籍でしょうか。莫高窟は、内部が撮影禁止なので、写真集かも。
17)杖をついて歩く人
18)女性がテーブルを出して売っているのは、飲み物でしょうか。
19)石窟の崖の向こうは、砂山が見えています。これは、鳴沙山(めいさざんミンシャー山)です。
ここは、東西40km、南北20km、高さ250mに及ぶ大砂丘群です。それは米粒ほどの砂礫が堆積してできているサラサラの砂山。黄金に輝いています。風に吹かれて落ちる砂の音がまるで山が鳴いているように聞こえたことからこの名が付いたといいます。『史書』には「天気が晴れた時は、糸竹管弦の音が聞こえ、まるで音楽を演奏しているようだ」とあり『沙嶺晴鳴』として有名です。
20)鳴沙山をラクダに乗った隊商が行きます。敦煌はシルクロードの要衝ですから、このように隊商が行き交ったのでしょう。
現在の鳴沙山は、これに観光客がたくさん登る所になっています。そして、およそ100頭もの観光ラクダが用意されています。
21)鳴沙山の向こうに水辺が描かれています。
鳴沙山の中には、月牙泉( ゲッガセン)という三日月形をした300年間水のかれないという小さなオアシスがあるので、それを大きくして描かれたのかと思いましたが・・・描かれた羊などからどうも違うのではないかと思います。
かなり離れていますが、シルクロードをさらに西に行ってウルムチから東北に90kmにある天池ではないかと思います。モンゴル語で「聖なる山」を意味するボゴタ山の中腹、標高約1980メートルのところにある半月形の美しい湖です。
22)池の手前には、緑の草原と羊たちがいます。これは・・・ウルムチつながりとすると・・・ウルムチの南郊外にある避暑地、南山西白楊溝ではないかと思うのですが、どうでしょう。
場面18に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 53人( 1508人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 22匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 44頭( 127頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 0羽( 132羽) |
荷車 | 0台( 35台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 0カ所(21カ所) |
場面19黄土高原・闘牛
0)旅人は 黄土高原にやって来ました。
黄土高原は、中国北西部の砂漠地帯から風に巻き上げられた砂塵が、悠久の年月をかけてこの地に降り積もり分厚く堆積したものです。深い谷を刻んでいます。人は、そのような大地に営々と耕し、農地を維持しています。棚田のように見えますが、田ではなく畑です。
1)右下 囲いの中に牛が二頭、2人の人が世話をしていて、飼い葉を与えているようです。
2)棒を持った人がいます。牛を制御するための棒でしょう。
4)牛と牛が角(頭?)をつき合わせて闘っています。闘牛です。
スペイン編でも闘牛が出てきましたが、こちらは闘牛士が牛と闘うのではなく、牛と牛が闘うタイプです。 日本でも牛相撲、牛突き、牛の角突きなどと呼ばれて各地に伝わっています。このタイプの闘牛は、牛を殺してしまうわけではないので、残酷さはあまりないですね。
疑問があります。黄土高原に闘牛が描かれているのですが、中国で闘牛を調べてみても貴州省などもっと南の地域の文化として残っているようで、黄土高原の例が分かりません。安野さんお得意の自由に組み合わせるパターンでしょうか?黄土高原での闘牛についての情報をお持ちの方はいらっしゃいません?
5)闘牛を仕切るために4人の男が取り囲んでいます。
6)観戦する人たちは、少し高い段に集まって来ています。観客席には、高い方が見やすいからでしょうか。安全上の観点でしょうか。右の貴州省の闘牛の写真でも少し高い段から見ています。
7)一番手前の3人やその向こうの数人は、牛たちを指さしながら、なにやら言っているようです。かなり熱が入っています。
8)パラソルの所に座っている人たちがいます。こちらは、少しゆったりと見ているようです。
9)お盆に飲み物を持っている女性がいます。
10)このあたりのパラソルの所にいる人たちは、どうも闘牛を見ずに、崖の向こうを見ていたり、話し込んだりしているように見えます。闘牛は、盛り上がっているのに・・・?
11)前で見ている男性達は、なんだか四股を踏んでいるようにして応援しています。あるいは椅子に座っているのでしょうか・・・描かれていないので・・・空気椅子??
12)パラソルの間に、両手を挙げて声援している人がいます。顔がよく見えないので、ひょっとして反対方向を見ているのかも知れません。その場合は、向こうの丘を歩いている人に声をかけているのかも。
13)帽子をかぶり茶色の服を着た男性・・・椅子に座っています。ちゃんと椅子があります。
14)観客の真ん中あたりの奥に、パラソルの下に屋台を出しています。飲み物でしょうか?男の人が買いに行っています。
15)パラソルの間に、話し込んでいる女性たちがいます。
16)椅子に座った人たちがいます。その右には、腕を振り上げて声援をしている男性グループがいます。
17)後ろに・・・腕組みをした人と何か話している人がいます。なんだか、険悪な空気を感じてしまうのですが・・・ケンカ?
18)応援席の右端にいる人たちは、椅子に座ってゆったりと観戦している人が多いです。
19〉小さな丘の向こうにはパオがあります。パオの外では女性が2人話しています。
20)パオの右にはかまどのような物があります。何か蒸し物でもしているのでしょうか?右の女性は何か脇に抱えています。薪でしょうか?
21)左 畑では牛に鋤を曳かせている人がいます。
22)下の段の畑でも牛を使って耕している人がいて、それを見ている男性がいます。
黄土高原は、雨が少なく、農耕には適さないように思いますが・・・・延々と耕されています。人の営みというのはすごいなあと、つくづく思います。
23)女性が、畑仕事を見ています。足下にあるのは、農作業の合間の休憩用の飲み物や食べ物といったところでしょうか。
「そろそろ、手を休めてお茶にしませんか。」なんて声をかけているのでしょうか。
24)崖の下には小さな集落があります。
25〉天秤棒で荷物を運んでいる人がいます。
26)洗濯物が干されています。
27)壁に四角な物が6つ並んでいるのは何でしょう?窓?
28)石臼があります。
29〉箕を使って、農作業をしている女性と、それを見ている子どもがいます。
場面19に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 134人( 1642人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 22匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 7頭( 14頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 0羽( 132羽) |
荷車 | 0台( 35台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 1カ所(22カ所) |
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場面20黄土高原・ヤオトン
0)旅人は 黄土高原の中を進んでゆきます。
安野さんは、黄土高原の広さを表すためにこの場面を描いたと書いておられます。そして、次の場面も黄土地帯です。
さて、谷は深く深くえぐれています。雨の少ない黄土地帯をこれだけ深くえぐる水があるのでしょうか・・・。
・・・黄土は微細で非常に固いのですが、水に簡単に浸食されやすく、一旦崩れると粉状になって飛び散りやすい土壌です。またこの一帯は年間降水量が少なく乾燥地帯とはいうものの、その少ない雨量の65%が夏季に集中していて、大豪雨になります。この豪雨もこの一帯の土壌流失の原因ということになります。
そして、パウダー状の黄土は、通気性も通水性も悪くて植物が育ちにくい土と言えます。強いアルカリ性ですが、ミネラルをはじめとして肥料分には恵まれています。従って上手く有機分を補って、水を準備できれば生産力の高い土に変貌します。
1)右 犬を連れて羊を放牧している人がいます。
羊は何を食べるのでしょう。当然草です。この大地には草がわずかしかありませんから、羊は黙々と食べ続けます。そのことが、このあたりの砂漠化を進行させてしまう要素の一つになっているのです。
2000年前の黄土高原は、その半分くらいは森に覆われていたようです。人が住み、森を切り開き、材木をとり畑を広げ、家畜を飼う・・・そのことが砂漠化を進めてしまい。現在のような自然環境を作ってしまったと言えます。そのことは、決してここ黄土高原だけの事ではないのでしょう。人と自然との関係は・・・・難しいです。
2)崖の下を旅人が馬で行きます。それにしてもすごい崖、この道はどのようにつづいているのでしょう。
3)ロバに荷物を積んで行く人がいます。ロバは、小さな身体でタフな家畜です。
4)白い花をつけた木があります。杏子の木ではないかと思います。
5)断崖に架かった木の橋があります。
6)左上 牛をたくさん追っている人がいます。
7)畑をスコップや鋤で耕している人がいます。
8)黄土の崖に横穴を掘って、住居にしたヤオトン(窰洞)があります。
横穴住居というと、何とも原始的で遅れた住環境のイメージがあります。ところが、ヤオトンは省資源住宅であり、省エネ住宅であり、気候風土に適応した合理的な住居といえます。
黄土高原は降水量が少ない上に、長い年月の人間活動によって森林が失われてしまい木材資源が極めて乏しい地域です。一方、黄土は細かい粒子で成り立っていて掘りやすい上に、乾燥すると強度が増す素材です。このため補強のための建築資材を使わなくても大丈夫(・・・さすがに大地震が起こると被害が発生するようですが)、建具などに少量の木材を使うだけですむのです。また、土の中は、外気温の平均的温度に保たれますから、暖房や冷房にかかる経費をかなり抑えることのできる。省エネ住宅でもありるのです。考えてみれば、莫高窟もヤオトンのようなものでしょう。
9)大八車があります
10)にわにはにはにはとりがいます。(庭には二羽ニワトリがいます)
安野さんのしゃれかな?
11)丸い台の上で、大きな石を転がして、農作業をしています。このグランドの整備に使うグランドローラーのような農具は何という物でしょうか?農作業は、脱穀でしょうか?
右の写真は、日本で使われている「どんころ」という木製の農具です。馬に曳かせてムシロに広げて豆類を脱穀する農具です。
12)脇に、ムシロに同じような黄色の物が干してあります。黄色の物はひょっとしてアンズ(杏子)の実でしょうか?
13)女の人が籠を持って立っています。
14)下の台にもヤオトンがあります。四角の入口は倉庫用でしょうか。
15)ここにも2羽のニワトリがいます。
16)子どもが2人います。どうも下の道を行く旅人のことを話しているようです。
場面20に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 11人( 1653人) |
| 犬や猫などペット | 1匹( 23匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 37頭( 171頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 4羽( 136羽) |
荷車 | 1台( 36台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 0カ所(22カ所) |
※登場した人の数が、・・・台北の故宮博物館にある「清院本清明上河図」の1643人をオーバーしました。
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場面21黄土高原・植林
0)旅人は 黄土高原を植林している所へやって来ました。
もともと黄土高原は地理的位置からして降雨に恵まれない大地です。しかし、前の場面でも書いたように、数千年前の黄土高原は森のある大地でした。人間の活動が、この大地から森を奪ってしまいました。その上、近年は地球温暖化に伴う気候変動が、この地では一層の乾燥をもたらしています。
しかし、人はこの大地に森を取り戻す営みも可能です。地元の人たちだけでなく、外国からのボランティアが緑化のために働いています。
1)雪をかぶった高山が見えます。何という名の山でしょうか。
2)右 荷物を積んだロバを曳いて植林地へやって来ている人がいます。
3)スコップを担いでいる人、棒を持っている人もいます。この棒は何に使うのでしょうか。
4)首に赤いチーフを巻いたこどもたちが行列をつくって歩いています。多分、小学生だと思います。この偉大なる挑戦に、未来の為にやって来ているのです。手に持っている黄色なものは何でしょう?
5)スカートの女性やスコップを担いだ男性は、先生や保護者でしょう。
6)天秤棒で何か運ぶ人が2人。何を運んでいるのでしょう。
7〉テントの所には、テーブルが出され、作業をする人たちの為に飲み物がお母さん達に酔って準備されています。
8〉苗木の束が7束建てられています。何の苗木でしょう。
アンズ、ポプラ、マツなど乾燥に強い木が選ばれます。
「緑の地球ネットワーク(GEN)」というNGO組織があります。砂漠化が深刻な中国・黄土高原の北東に位置する山西省大同市で1991年から植林活動を続けている日本のNGOです。事務局長の高見邦男さんが『ぼくらの村にアンズが実った』という本を書かれています。
高見さん達が植林木として選択したのがアンズです。アンズの種からは杏仁(きょうにん)をとることができ、杏仁は咳止めの薬となるのです。(そういえばそんな名称の製薬会社がありました)この杏仁は、この付近の主要農産物のアワ・キビなどと比べて4〜10倍の収入を得ることができるというのです。緑化だけでなく土地の人々の経済的生活の事も考えた選択です。
緑の地球ネットワーク(GEN)のHP
http://homepage3.nifty.com/gentree/
※参考「森を知る 森と生きる あきらめず15年 植林続けた日本人」
http://doraku.asahi.com/tsunagaru/special/index.html
9)穴を掘る人、そばで苗木を持って待機している人。2人一組なって、木を植えている人たちがいます。
10)植えた苗木の根元にタライのような物をもって何かしている人がいます。水をやっているのでしょう。
11)小さな子たちが集まって、女性と一緒に木を植えています。
12)ロバが苗木を背負ってゆきます。引き綱は見えませんが、三角の笠をかぶった人が曳いているのでしょう。
13)ここにも、10束の苗木があります。
14)中央 スコップを担いだ男性が話しています。
15〉苗木の束を抱えて行く人がいます。
16)ここにも長い棒を持った人がいます。この棒は何につかうのでしょう?
17)子どもが3人、スコップを持って立っています。さあ次は、何しようかというところでしょうか。
18)手前の所は、植林がすんでいて、植えられた木が並んでいます。
19)天秤棒で運んでいる人が又います。運んでいるのは、水ではないかと思います。
20)大人達が植えているのを、興味深そうに見ている女の子がいます。
21〉10束の苗木の右 座り込んで休んでいる男性が2人います。
22)ここにも3組植えている人たちがいます。
23)左端 木に水をやっている子どもがいます。
24)小高いところで男女が指さしながら何か話しています。指さす先には、去ってゆく旅人がいます。あの人は、どこに行くのだろうと話しているのでしょう。
25)旅人が馬に乗って黄土高原を中国を去って行きます。
去って行くときに馬を使うのは、今回が初めてだと思います。
第1巻の中欧編は、船でやって来て、馬を置いて歩いて去りました。第2巻のイタリア編では、歩いてやって来て馬を置いて船で去りました。第3巻のイギリス編も第4巻のアメリカ編も第5巻のスペイン編も第6巻のデンマーク編も、船でやって来て馬を残して船で去りました。
場面21に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 77人( 1730人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 23匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 4頭( 175頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 0羽( 136羽) |
荷車 | 0台( 36台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 0カ所(22カ所) |
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「裏扉」
今回も、裏扉は前扉の鏡像です。この旅が、張擇端の「清明上河図」を目標にした。旅であったことを思い出します。
河をさかのぼり、街に入り、街を出て野に山に。
広大な中国の人々の生活を感じることができました。
さて、旅人は次にどこに行くのでしょう。
前号の最後で、中国か日本かと推理しました。 とすると、次は日本?
しかし、今回は馬で去っています。これまでの例からすると、次の巻では、馬であらわれることになると思われます。すると・・・・シルクロードの先にあるのは?イラン?イラク?・・・
インドではないかと思うのですが。どうなるのでしょう。ちなみに安野さんの初めての海外旅行では「デンマーク、オランダ、チェコ、スイス、フランス、イギリス、イタリア、ギリシャ、エジプト、トルコ、インドなど2ヶ月をかけて巡った」との事です。これで見ると、インドの他にトルコやエジプト、ギリシャも可能性があるかも。
と、予測していましたが・・・・
次は「日本編」であることが判明しました。
馬で去ったのに、船で表れることになりそうです。う〜〜ん。
しかし、ついに日本です。どのように日本を描かれているのか、楽しみです。
裏扉に描かれたのは・・・(トータル) ※精確さに自信なし!? |
人 | 55人( 1785人) |
| 犬や猫などペット | 0匹( 23匹) |
自転車 | 0台(29台) | 牛や馬 | 7頭( 182頭) |
自転車タクシー | 0台( 6台) | 鳥 | 0羽( 136羽) |
荷車 | 2台( 38台) | 車椅子 | 0台( 3台) |
船 | 0艘( 66艘) | 洗濯物干し | 0カ所(22カ所) |
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