ジュリア・パーカーさんの生き方にふれる

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《ジュリア・パーカーさん》

実のところ、お会いするまではわずか1時間のお話という予定だった事もあり、そんなに期待はしていませんでした。ところがお会いしてお話を聞いている内に次第に魂を揺さぶられるのを感じ出します。終わってみれば予定の倍の2時間にわたる出会でした。彼女の昼休みを奪ってしまう結果になったのですが・・・。大いに勇気づけられました。
さて、ジュリアさんはアメリカ先住民族の一人として、ヨセミテ渓谷にある博物館でレンジャーとして勤務しておられる72才のレディーです。
彼女自身の生涯がアメリカと言う国家や社会が先住民族をどのようにとらえてきたかの証の一つでもあると思いました。と同時に民族というものを考えるときに大きな指標にもなるものだと感じました。
彼女が生まれたのはサンフランシスコ近くの海岸沿いの部族だったそうで、5才くらいまで暮らしておられたとか。先住民の学校に通ったそうですが、7才の時ご両親が亡くなられて。・・・色々あったのでしょうカナダの「インディアンスクール」に通い、そこで現在のご主人であるパーカー氏と出会われたそうです。そこでは「インディアン」のことについて学ぶことはなかったそうです。クロニアン(彼女は白人という表現をとらずにこの表現を使われました)の事を学んだと言われます。その学校からは医者や弁護士などの人は出ていないそうです・・・。18才の時にパーカー氏の故郷であるヨセミテに来られます。夜ヨセミテに入ったのでその景色を見ることができなかったのですが、流れの音やにおいを感じたそうです。そして、日が昇ると共にヨセミテ渓谷はその姿を現し、彼女にとって母のように感じる事になる姿を見る事になったのです。偶然にも私が初めてヨセミテバレーを訪れた10年前も夜でした。明かりの規制がしてあるヨセミテロッジの前にバスが止まったとき、どうしてこんなところに止まるの、何か起こったのかと思ったほどでした。
まさかそこが世界的な観光地でもあるヨセミテの中心部とはとビックリもし感心したものです。そして、夜明けと共に現れた渓谷の姿に感動したものです。旅行者ですらそうだったのですから、結婚のためにやって来てあの景色にそのような出会いをするとは・・・・。
ヨセミテ渓谷の中を流れるマーセド川の川岸で結婚式を挙げて、彼の祖母と共に暮らすことになります。その祖母という人はカゴを編む名人でミュージアムにその作品が展示してあるそうです。若いジュリアは、「インディアン」は何も知らないと言われていたので「インディアン」になりたくなかったそうです。学校ではチアリーダーをしたりしていたので、別の生き方をすればアメリカンフットボールのチアリーダーになっていたかもと・・。

《ジュリアさんとあやとりをする》

また、祖母が彼女にカゴの編み方を教えることもありませんでした。若い人はカゴを編むよりもカゴを(採集や子育てに)使うという考え方だったそうです。 こうしてカゴの編み方を学ぶこともなく時日が過ぎ去ってゆきます。そして、ある時ミュージアムでカゴを編む実演をしてくれないかと頼まれます。しかし、彼女はカゴの編み方を知りません。すでに祖母も亡くなっておられ、部族の中にもカゴの編み方を伝えられている人はいません。これであきらめれば現在の彼女はなかったのでしょうが、あきらめずに他部族の人にカゴの編み方を教わることになります。カゴ編みを習うことは単に技術の取得するにとどまらない意味があつたようです。編み方と同時に先住民が自然とどのように接する知恵や精神を持っていたかを学ぶことにもつながったのです。恵みを与えてくれる自然への感謝や愛情、収奪し尽くす事の諫め。あるいはカゴを編むときのルールに込められた先住民の知恵、等々。
こうして、先住民の知恵までも学ぶことになった彼女でしたが、彼女の仕事はカゴを編む姿を見せるだけの事でした。ところが、ある出来事をきっかけに語り出します。その出来事といのは、ある日彼女の作業をバックに解説するナチュラリストの話の中に、聞き捨てることのできない誤りを感じたのです。彼女はカゴを置き立ち上がります。そのナチュラリストは「インディアン」は戦いを好み殺し合いをし、自然のものを根こそぎ収奪していたと言うのです。
それは違う・・・。先住民の生き方の基本は平和を愛する精神性に支えられているし、カゴ編みのルールにも出てくるように自然からの収奪を諫めているし、他人の採集場から盗ったもので作ったカゴは出来損ないになるというように、人と人との共存を前提とする文化、自然からも他者からも収奪することを否定する文化だったからです。カゴを置いて語り出した彼女は、国立公園の中で位置づけが変わってきます。それは同時にアメリカという国家が先住民に対する評価を変化させてきた歴史とも重なってくるように思われます。

《復元された小屋の前で》

《小屋の中から煙り抜きを通して山を見る》

 ところで、彼女はしきりに「インディアン」と言う言葉を使いました。インディアンは英語では本来インド人という意味ですから、これはアメリカ先住民に対する呼称としては、コロンブスの誤解に起因する不適切な表現です。同行者の一人が確認しました。「インディアン」と呼ばれるのを好むのか「ネイティブアメリカン(アメリカ先住民)」と呼ばれるのを好むのかと。彼女の答えは明確でした「ネイティブアメリカン」と呼ばれたいと。その上で、どう呼ばれても良いというのです。なぜなら彼女自身が自分はどこから来てどういう存在か分かっているのだから他の人がどう呼ぼうが私は平気だと言うのです。どう呼ばれるかは民族の心としては大切なことです。いい加減な呼ばれ方をすることは好ましく無いに決まっています、でもそれ以上に大切な事は彼女自身がどのように自らを受け入れているかです。まさにその意味で彼女は彼女自身のルーツを完全に受け入れて安定しているのです。また、彼女はこのようにも言いました。「ネイティブアメリカン」と言ったときそれは彼女のような先住民だけでなくアメリカで生まれた人々をも意味するのだからと。彼女のこのような言い方の中に、むしろ先住民であることの誇りと思想性・精神性があると思いました。

これは彼女自身が3/4先住民で1/4白人(彼女自身は先にもあげたように白人というくくり方をせずクロニアンという表現をしました。・・・白人というくくり方に没文化性を感じられているのでは無いかと思います)であることにもよるかも知れません。いずれにしても、彼女はそのようなルーツをふまえてより高い精神性を手に入れていたのです。私はこのことにアメリカという社会がたどり着いた高い精神性を見たような気がしました。無論アメリカ人総てが彼女のような高い精神性を手に入れている訳では無いでしょうが・・・。私は彼女が語ってくれた内容と、彼女の存在そのものに強く勇気づけられました。

お話の後、ミュージアムの庭に復元された遺跡の説明を直接受け歌を歌いダンスを共にしながら、なんて幸せな存在なんだろうと思っていました。彼女か生きた72年の間にアメリカ社会が果たした変化、それを前向きに受け入れた彼女、そしてその人に接する事のできる私たち、総てがなんと幸せなんだろうと。
こうして1時間の予定が2時間となり彼女の昼休憩を奪ってしまうことになったのですが・・・。
彼女と別れて昼食を食べた後、もう一度ミュージアムの中を見に行くと、展示室の一角でカゴ作りの実演を黙々と行っている彼女の姿がありました。静かに輝いていました。

《籠造りの実演中のジュリアさん》

《ミュージアムに展示してある籠》


《ミュージアムの庭にて》

ネイティブアメリカンの精神性を理解するために『父は空 母は大地』をご覧下さい。
「ネイティブ」ということについての素敵な言葉を見つけました。オー・シンナ(アメリカ先住民)の言葉


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