「モヤさん」の人と自然の出会い旅]

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人と自然の出会い旅41
同志であったOさんを偲んで
※レクリエーションとネイチャーゲームの同志であったOさんが亡くなられ、弔辞を読ませてもらいました。人と自然の出会い旅29の「100才の友人(Sさん)」は、Oさんのお母さんでした。
とても、大切な人でした。少し長いですが、Oさんの生き様の一旦でも感じてもらえれば幸いです。


 Oさん、長い間ありがとうございました。
出会ってから、あふれるようなやる気と勇気、そしてエネルギーを頂いてきました。どんなに、元気づけられ、後を押してもらったことか。ありがとうございます。

 Oさんとの最初の出会いは、もう27年くらい前の事になります。当時、Oさんは、子ども会の役員を引き受けてはみたものの、子どもたちをどのように指導したらいいものか見当がつかないから、とにかく勉強しなければと、レクリエーション指導者養成講座に参加してこられたのです。
 よく「もっと早くからこの世界を知っていれば」と言われていたものです。ただ、普通の人が「もっと早く・・」と言うときには、できないことの言い訳だったりするわけですが、Oさんの場合は全く違いました。もっと早く知っていればもっと有意義な人生を送れていたのにということでした。
 レクリエーション養成講座の受講にあたっては、当時まだ一般には珍しかったビデオカメラを、そのために購入されました。1回聞いただけ、体験しただけでは、身に付かないから復習用に講習の全てをビデオに撮らしてほしいと言われたときには正直驚いてしまいました。実技の時も講義の時も常に三脚に据えられたビデオが回っていて、緊張したものです。ここまでした人はOさんだけ、後にも先にもこの時の1年間だけでした。

 元々の素質とこうした工夫の結果、急速な勢いで指導力アップを実現してました。養成講座を受講しながら、地元でどんどん指導されていて、その体験の上で受講中の質問もきわめて具体的でした。翌年になると、地元だけでなく、よそからの指導依頼をどんどんこなされていました。「自分は経験が少なく力不足なんだから」が口癖で、充分に下見をし、しっかりと打ち合わせをされます。ともすれば、全てお任せといった丸投げの指導依頼をされる主催者が多いものです。そんな主催者から、何のためにこの行事を行いたいのかと願いを引き出し、自らの願いを毎回熱く語っておられました。こうして、主催者自身が指導を頼み任せてしまう人から、主体的に取り組む仲間になって行きます。こうして、万全の準備のもとに力強い指導をされたものです。細心の心配りでの準備と、熱い指導。これは、Oさんの活動領域が広がっていっても、変わることは有りませんでした。

 「夢は叶う、やりたいことはできる」と断言する人がいます。いやそんなこといっても、いくら願ってもかなわない夢やできないことの方が多いなどと、凡人である私は思ってしまうのですが・・。それに対して、こう言われてしまいました。「簡単にできない・無理だというけれど、そもそも実現するためになにをしなければならないのかすら、ちゃんと考えていない。本当に大切な夢なら何かを犠牲にしてでもかなえようとするもの、捨てるものを考えもしないでできないと言う、そんなものを夢だ等と言うな」と。

 それもそうだなあと、納得させられるのがOさんの前向きの姿でした。レクリエーションの事だけではありません。やると決意したことには、他の事を犠牲にしても可能な限り時間と力を注ぎ込んでいましたよね。この15年間、一緒に活動してきた、ネイチャーゲームを紹介した時もそうでした。これだと思ったOさん(大ちゃんとよばしてください)は、香川県まで講習を受けに行きました。実践を重ね、工夫を重ねて一流と言っていい実力を身につけ、中級指導員と言う資格が新設されると、すぐに取得。ネイチャーゲームの創始者であるジョセフ・コーネルさんから学ぶべきだと感じると、すぐにアメリカへの研修旅行に参加。このときは、アメリカと言うことで難色を示していた私の家族も説得してもらいました。「説得のO」が本気になるとすごかったです。当時学生だった喪主のTさんにも声をかけて一緒に参加されていました。とにかく、決断したら早い、もちろん暇を待て余しての事ではありませんでした。むしろ人一倍忙しい人です。それでも、時間が無いからできないとは考えませんでしたよね。「今、なすべきだ」と言うことが優先されるのです。しなければならない仕事があるなら、前後で睡眠時間を削ってでもこなしてしまって、やろうと思ったことをやり遂げてしまっていました。やれない理由を探すのではなく、できるようにするためには何をしたらいいのかに、工夫を凝らすのが当たり前という生き方でした。

 ネイチャーゲームを通じて自然との関わりが深まる中で、動物写真家との出会いが有りました。すると、それまで使い捨てカメラ専門だった大ちゃんが、高級写真機を購入し、精力的に写して確実に腕を上げて行きました。そして、野生動物を撮るんだとアフリカにまで行き、写真集の刊行に名を連ねられていましたよね。
 撮影旅行を通じてアフリカの自然・人・文化の素晴らしさに心が動かされると、あちこちで満面の笑みと共に「ジャンボ!!」と声をかけながら、アフリカの素晴らしさを熱く伝え、仲間と共にアフリカに向かう。とうとう4回もアフリカに行ってしまいました。最後のアフリカ行きの時は、すでに体の中にガンが発生していて、苦しい中だったと聞きました。文字通り命がけだったんですね。

 カヌーの時もそうでした。自身の体験を通じて楽しさを知ると、すかさず購入して、協力者と共に子どもたちを中心に多くの人にカヌー体験を届けてましたよね。

 福祉レクリエーションの必要性を感じると研究会を立ち上げ、自身がホームヘルパー1級の資格を取られました。1級というのは当時、男性として県内唯一の存在だったのだからすごい。その実力は、お母さんの介護でも十二分に生かされていました。

子どもたちの居場所が必要だと感じれば、自宅を開放して「みみずく文庫」を開設。そのために大量の絵本を買いそろえ、小学校の子どもたちが、毎日のようにやってきて元気をもらってましたよね。それを語るときの大ちゃんのうれしそうな顔が忘れられません。

 最近は、松永の親子グループ「遊・友クラブ」の育成に力を注がれていました。ネイチャーゲーム、ダンス、キャンプ、演劇・・・多様な取り組みの先頭に立って走り続ける姿がありました。ここにも、たくさんの仲間を生み出す大ちゃんの姿が有りました。

 大ちゃんの得意技の一つに、「いいとこさがし」が有ったように思います。まさに、名人技でした。本人すら気づいていない長所を、いち早く気づいて勇気づけます。「すごーい」と大きく目を見開いて、心から感心してもらうと、子どもも大人も自信を回復し、自分の事が好きになってしまうのです。おべんちゃらでも、軽薄なヨイショでもない、本物の勇気づけだったものです。
 大ちゃんは、後ろから追い立てるように他人を動かすのではなく、自らが先頭に立って走り続け、自らの長所をのばし続けた人でした。「やらねばならない」と義務感にとらわれての活動ではなく、それを心底楽しみながらの歩みでした。みんなはそんな大ちゃんの姿にも勇気づけられてきたのです。学ぶことは、成長することはこんなにも楽しいよと、自らが示され続ける大ちゃんでした。

 大ちゃんとも関わりの深かった、シンガーソングライターの浦田愛さんの持ち歌の一つに、「今を生きる」という歌があります。大ちゃんの生き方とも重なると思うので、紹介させてもらいます。

野に咲く草花 小さな小さな虫たち
こんな小さな体の中にも
生命(とき)ながれてる
君の生命のながれ 君しか流せないから
君の生命 大切に 大切にしよう
*  今 今を 今 生きること
  今 今を 今 生きること

空飛ぶ鳥たち 川を泳ぐ魚たち
こんな小さな体の中にも
生命(とき)ながれてる
今 今と言った 今は返らないから
今 今 大切に 大切にしよう
*  今 今を 今 生きること
  今 今を 今 生きること

 「今」を生ききった大ちゃんでした。もっと生きていてもらえれば、もっともっと多くの人がエネルギーをもらえただろうと思います。あまりに早い旅立ちは、残念でたまりません。
 それでも、その時々の「今」を、精一杯生きてきた大ちゃんは、普通の人が80年かけても100年かけても達成できなかっただけの歩みをされたともいえます。その意味で、悔いの無い一生でしたよね。私も、私たちも、今を生ききりたいと思います。大ちゃんが・Oさんがそうであったように。
たくさんの元気をありがとう。
ありがとう大ちゃん。
さようなら。
2004年7月18日
もや

※もっと伝えたいことがあったのですが、次第に長くなってしまい、これ以上長くできないと考えました。書けなかった事を次の「Oさんにちなんで」に書きます。

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人と自然の出会い旅42
0さんにちなんで

 結局のところ、Oさんは諸々の活動を「好きでやっていた」という事になるんだと思います。日本の社会ではこの「好きでしている」というのは、社会的評価はずいぶん低いようで、半分揶揄だったり、ひどくするとさげすみの言葉になってしまいます。反面、「皆の期待の中で」「やむを得ず」「やらされている」見る方向を変えると「やってもらっている」というのが、社会的評価が高いようです。
 だから、処世術として「仕方なく引き受けた」「皆のためだからやっている」という形を作るとうまく行くということになります。周囲の人も「頼んで、してもらっているのに足をひっぱってはいけない」「無理に引き受けてもらったんだから手伝わないといけない」と、協力も引き出しやすいわけです。

 日本では、奉仕活動はあっても、本物のボランティア活動が育ちにくい理由は、これだなぁと思います。「皆が嫌がること(その人もやりたくないこと)」を自己を犠牲にして集団のために(無償で)してくれるから有難いと感じる。それが、好きでやる、自発的にやっているのでは有り難みが減ってしまう。日本人にだって「みんなのために何かをしよう」という気持ちをもっている人は決して少なくないのに、ボランティア(自発的にする)にならない。純粋にボランティアでやろうとしている人を見ると、うさんくさい目で見たり、もっとひどい場合には我が儘な人となってしまうのだから悲しい。
  
 先日(2004.6.13〜15)の宮城での ネイチャーゲーム全国研究大会で、ネイチャーゲームの創始者であるジョセフ・コーネルさんの記念講演がありました。その中で、人が何かをしようとするとき動機として、5つの状態を示して、それを倫理性の高さ順に並べるとどうなるかという問題が示されました。5つの状態を順不同に並べると、「それをすると、喜ばれるからする」「それをすることが、正義だからする」「それをしないと、罰がある(怒られる)からする」「それを、やりたいからする」「それをすると、ほめられる(褒美がある)からする」というものでした。この一つ一つを書いたカードを、協会スタッフが持って壇上に立ちます。これを、会場の声とやりとりしながら、倫理性の高いものから順に並べていったのです。会場の声の多くは、「喜ばれるからする」を1番目か2番目の高さに想定しました。ところが、コーネル氏はこの基準は真ん中(3番目)だというのです。全ての基準の中で言えばニュートラルなポジションだというのです。これを中心により高い倫理観か、低い倫理観かと考えるんだと言うわけです。結局その順位は・・・・

1.「それを、やりたいからする」
2.「それをすることが、正義だからする」
3.「それをすると、喜ばれるからする」
4.「それをすると、ほめられる(褒美がある)からする」
5.「それをしないと、罰がある(怒られる)からする」

だったのです。
4や5は、怒られなかったり褒められなかったらやらない。怒る人や褒める人が見ていないところではやらない。ということになります。やるやらないの基準が外にあるわけです。基準が内側にあれば、そのことを評価する人がいようがいまいが実行する。場合によっては、怒られても褒められなくてもあるいは喜ばれなくてもするわけです。
 コーネルさんは言います。人々の心に、そのこと(この場合、自然を我がこととして感じるということ=自然と我は一如)を、確立するならば、「やりたいからする」行為として自然に対してふさわしい行動をするようになる。そのことをこそ目指したいということでした。

 もちろんこのような行為は、実行者が100%の責任を負わなければなりません。責任を他に転嫁することもできないし、転嫁する気もない。これも、日本人には苦手のことです。(責任は、集団の中に埋没させたい)

 もちろん、法律等で刑罰を用意したり、勧めたりする事が無意味だというわけではありません。それは、洋の東西を問わず、社会を作ってゆく場合に、きわめて有効な手段です。その有効性は充分に認めた上でなお、より高い倫理性を求める。それが、真の幸せにつながるのだと思います。

 その点、Oさんの行為は「好きでしょうる」でした。そして、Oさんの評価は高かったし、Oさんのことを強く慕う人が多かったのはなぜだろう、と考えます。Oさんのつかんだもの、Oさんの生き方。そこに、しっかりと見つめ直したいものがあると思います。

 日本という社会に生きているのだから、「やらされている」とか「みんなのためにやっている」という形をとるとことは、処世術としてかなり有効で、まんざら捨てたものでも無いと思う。捨てたものでもないとした上で、本心のところでは自分が「好きでやる」「やりたいからやる」の世界を作り上げたいと思う。そのように信じられる活動をしていないと、生命が枯れてしまう。自分しか流せない生命(とき)を無駄にしてししまう、偽物にしてしまう。
 Oさんは、かなりの部分それ(やりたいからやる)ができていたように思う。だからこそ、Oさんの自身が元気だったし、周囲の人が元気になっていったのだと思う。究極のところで「やりたいからやる」という高い倫理性で生き、できる限りそれを表明しながら生きてゆきたいと思う。
2004.7.22

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人と自然の出会い旅43
受講生からの便り
ネイチャーゲームのリーダー養成はとても濃密で、気づきにあふれた3日間です。その気づきの深さがよく伝わってくる内容の手紙をいただきました。嬉しくなって紹介します。


・・・・・

 講座での深い感動をまだかみしめています。言葉には表せない、体験することによる“気づき”を初めて得ることができました。

 特に心に刻まれたのは「狩人の訓練」です。雪が降ったり止んだりしている中、木に寄り添って座っていると、雪が降って地面の落葉などにあたる音が聞こえてきました。そして、雪がやむと森がひっそりと静まるのを感じました。そのあと、再び雪が落ちてきた時、森全体がその雪の音で“にぎやか”になったと体で感じました。それは不思議な感覚でした。このひっそりとした森の中で雪が降ったりやんだりを繰り返して、その度に森がにぎやかになったり、また元の静寂に戻ったりしていたこと、そして、それは雪が降る度に繰り返されていたのだろうということ。あたり前のようだけど,私がそれを体全体の感覚で感じ取ったときの あの言葉にできない不思議な気持。その時は自然によりそい“感じていた”だけだったのですが、カメラゲームのように時間をおいて思い返す度に、どんどんそれが深い感動に変わってきました。教えてもらったのではなく「自分で感じて」初めて発見したという感覚。この体験で、心の深い所と自然がつながったような気がします。うまく文章にできないけれど、この時の感覚を今 思い返しても、胸がいっぱいになります。この感動が伝わったら・・と思います。

 私は今、自分探しを続けている所です。他の多くの受講生のように、学ぶことが目的ではなく、苦手なアウトドア活動に挑戦して、新しい自分を切り開こうと思って参加しました。交流分析という心理学を2年、必死で学んで、やっと最近、自分を大切に生きていいんだということに 気づいてきました。今までは 自分は価値のない人間だと思いうしろ向きの人生だったのですが、「今、ここで」を大切に、自分や人を大事にすることを実感できるようになった所でした。

 そして、このネイチャーゲームに偶然出合ったのです。自然とのつながり、人との感動のわかちあいまで知ることのできた この講座は思っていた以上に、素晴らしかったです。感謝の気持でいっぱいです。 そして、先生の、命を大切にするという思いや、いろいろな物事の考え方にふれることができて更に実りの多い時間になりました。 「今を生きる」ということを大切に思えるよう、これから、更に自分と、自然と向き合っていきたいと思います。

・・・・・・

                           M.K.

2005.3.23

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人と自然の出会い旅44
「命あふれる」フィールドで


 少し前の話になってしまいましたが・・夏に富山で養成講座のことです。利用した施設は、森林組合の運営する研修施設。富山と石川の県境の奥深くにあって、施設の周りからはたくさんの野鳥の声がひっきりなしに聞こえてきて、北側の窓からは金沢の街や海まで見えるというなかなかのロケーションです。
森の水先案内人開講式が終わって、導入の講義が終わったら、まずは体験をということで、フィールドへ向かいます。下見の時に見つけた不思議な場所に案内することにしました。予定した場所には、こんなもの(写真参照)が出迎えてくれる場所でした。まるで森の中を進船に乗った不思議な人が手を上げて迎えてくれているようです。森と森の人に迎えられて講習会が始まる・・・そんなイメージの幕開けを期待したのです。
 ところが、もっと劇的なオープニングが用意されていたのです。建物を出て・・・予定した場所へ向かっているときでした。目の前の林の中(距離にして5m標高差2mといったところ)に一頭のカモシカがいたのです。誰かがつぶやくように「アッ、カモシカ!」といいます。その声に導かれて、皆の視線がカモシカに向かいます。カモシカもしっかり私たちを意識しているようですが、こちらをしっかり観察しているようで全く逃げる様子はありません。そんなわけで、全員がじっくりと特別天然記念物カモシカと向き合うことができたのです。いつまで経っても膠着状態が続き・・・充分に楽しんだので、移動することにしました。偶然にも予定した場所へ行くにはは、少し回り込みながら彼(彼女?)に近づくことになります。さりげなく坂を上り・・・近づいていて行くと、さすがに彼も少しずつ離れて行きます。そして、林の中を悠然と遠ざかってゆきました。これまで経験した中でもっとも劇的な講座の幕開けでした。
 ちなみに、この会場色々と珍しいものに出逢いました。何故か、道の真ん中にできた水たまりにたくさんのオタマジャクシがいます。いったいどこからこのオタマジャクシはわいてきたのかと思ってしまいます。これは、モリアオガエルのオタマジャクシでした。木の枝に産み付けられた卵塊から出てきたオタマジャクシだったのです。それにしても・・・雨が降らなければ消えてしまう道の真ん中の水たまりに生まれ落ちてしまったこのオタマジャクシ達はこれからいったいどうなるのでしょうか・・・などと、行く末を案じる参加者達でした。
 施設から離れた所にある、キャンプ場。一段と自然度が高いので、往復のロスタイムを承知で利用しました。もう長い間利用されていないのか途中の車道は崩れてしまい徒歩でしか入れません。何棟かあるバンガローも、使われていないようです。このバンガローがおもしろいのです。やたら穴が開いているのです。キツツキかムササビが犯人にだと思うのですが、なんでこんなに開けなければならなかったのか???謎です。壁に開けられた穴を見ていると突然反対側の空が見えたりします。穴の反対側の壁に開けられた穴と一直線上に見上げていたのです。

 この、講習会でできたフォールドポエムのひとつを紹介しましょう。

「刀利の森V」
木もれ日は優しく、雲は流れる
鳥はさえずり 木々は語りかけ
老木は見守る
若い仲間にかこまれて
静かに昔を物語る
宇宙の時間、私の命。

山の中に命を感じ続けた三日間でした。
2006.2.3作成


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人と自然の出会い旅45
旧暦は自然暦!!・・・?

 旧暦の素晴らしさが見直されています。旧暦讃辞の中には、いささか我田引水的言辞もあって、「眉唾」の観もあったりするのですが・・・自然との関わりを基軸に、考えてみました。
 自然との関わりで、旧暦(太陰太陽暦/天保暦)がもっとも優れている点は、月の運行と日付けがシンクロしていることにあると考えます。地球上の生命にとって、月の存在は大きな意味を持ていると思います地球上の生き物の遙か先祖は、海の中で生まれたようですし、その海では月と太陽の関係によって起こる潮汐作用はが、とても大きな意味を持っています。サンゴの産卵は5月〜9月の間、満月大潮の4日後から1週間、種々のサンゴが産卵すると言います。潮汐作用と大いに関係があるようです。
 陸上生活に適応したアカテガニが、産卵(正確には放仔)するのは7-8月の大潮(満月か新月)の夜、満潮の時間に合わせてです。まるで相談したように、たくさんのメスが海岸に集合するのです。潮の動きを何らかの方法でアカテガニは知っているわけです。
 人間も自然分娩の場合は、上げ潮時の出産のケースが多いといいます。このように見てくると、月のリズムや潮のリズムを感じる能力(影響を受ける力)が私たちにはあるようです。その月のリズムが取り入れられる太陰暦を使うことは、自然のリズムに合わせるという意義があるように思えます。
 太陰暦の最大の欠点は、月の公転周期と地球の公転周期の比が整数で無い為に、ずれが生じる点にあると言えます。これについては、世界の各地で太陰太陽暦という両方を組み合わせて、両者のずれを修正する方法がとられてきました。(日本とか、中国文明圏とか、東洋だけの知恵というのは事実に反します)
 さて、中国や日本で使われてきた「旧暦」は春分点/夏至/秋分点/冬至を基準に1年を24等分(天保暦では角度を等分にました。地球の公転軌道は楕円なので日数的には長短があります)した節目が24節気というわけです。きわめて科学的(機械的)です。ではありますが・・・春分の前後を春、夏至の前後を夏と設定してしまうので、日照時間の変化と気温等の気候の変化の時差分、季節感が少々前倒しになってしまうようです。たとえば、旧暦の1月から3月が春になります。旧暦の1月1日は新暦(グレゴリオ暦)ではだいたい、1月〜2月末くらいになります。2月といえば一年で一番寒いときですから、これからの3ヶ月が春というのは皮膚感覚とは、明らかに異なります。そこで24節気については、「暦の上では立春です」とかという表現になるわけです。あまりにも機械的に季節を決めているようにも感じます。
 しかし、この「先走った季節感」が、季節を先回りして意識するという効果を出しているのではないでしょうか。一年で一番寒いときに春の兆しを感じる、猛暑の中に秋の兆しを感じるといった具合に。その意味では、季節を強く意識する仕組みのある暦であるといえるでしょう。
 しかし、「花の咲く時期、虫や鳥の出現は、新暦にはまったくあてはまらず、旧暦の太陰太陽暦の方でぴったり合います。」とまでおっしゃる方を見ると「??」です。確かに、3月3日の桃の節句だとか5月5日の端午の節句や7月7日の七夕のように、旧暦の行事の月日を新暦にそのまま移してしまったものは、季節感がずれているというのは、その通りです。旧暦と新暦では新年の始まりが1ヶ月ほどずれていますから、本来の季節のイメージに当てはまらないというのは、当然です。例えば72候の中で「桃始めて咲く( もも、はじめてさく)」 は新暦で毎年3月11日〜15日くらいですから、地方によるずれを考慮に入れないと、桃の節句を新暦で3月3日のにするとまだ、桃は咲いてないのにということになるわけです。ただし、これはれは新暦の不備な点でというよりは、日付をそのまま移してしまったことによる不備です。
 そして、前記の理由で24節気(特に立春・立夏・立秋・立冬)は早めになっているけとはいえ、72候は日本の気候に合わせて変更されたものを使うことが多いので、(近畿圏で考えると)かなり季節感を正確に表していると言えます。しかし、24節気も72候も旧暦の太陽暦部分ですから。太陰暦の月日は、(閏月で調整しても)約1ヶ月の幅で揺れが生じます。先ほどの「桃始めて咲く」で考えてみましょう。旧暦では、年ごとに月日が変わります、2005年には2/1〜5、2006年には2/12〜16でした、2007年には1/22〜26になります。旧暦の3月3日も24節気や27候では毎年違う季節になってしまいます。2005年には清明の次候「雁水へ帰る」2006年には春分の末候「雷声を出す」2007年には清明の末候「虹始めて見る」になります。
 旧暦の季節感が月日であっているというのなら、24節気や72候の季節感は違う、24節気や72候の季節感があっているというのであれば月日が違うと言うことになってしまうのです。私は、基本的には、日本の気候に合わせた72候の季節感はほぼ正しいと思います。もっとも、地方によるずれや、その年によるずれはあるでしょうが、それはそれぞれが「わたしの暦」を作って比べてみると楽しいです。
(2006年2月から仲間と毎日「わたしの暦」をつくっています。ご覧下さい。)
そもそも、旧暦が農暦であるというのは、24節気や72候部分をさしているはずです。
それは、季節を表すために諸々の自然の事が織り込んであって日常的に、自然を意識させる素晴らしい内容だと思います。

旧暦については、色々な情報があります。
「こよみのページ」(とにかく基本的情報満載の素晴らしいHPです)
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/kyuureki.htm
「旧暦について」(科学的で精密な内容だと思います。長文!!)
http://www.din.or.jp/~itoh01/soft/calendar.htm
「七十二候表 <春> 」(色々な72候を比べてみることができます。)
http://www.shitsurai.com/002/72spr.html#top
「お月様とも仲良]く 日本古来の太陰太陽暦」(旧暦賛美のHPです、科学的には?ですが、「畑帳」は事実に即していて参考になります。)
http://www3.plala.or.jp/Garten/kyureki/
2006.2.21


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