を遊ぼう」8−2(日本編)

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場面4 花見

(0)旅人は、盛大な花見が行われている所へやってきました。
 日本中至る所にある、桜の名所のどこか・・・・と言うことでしょうが、安野さんの気持ちとしては、津和野川の桜並木のイメージだろうと思われます。
 
 花見をする文化は奈良時代からあるらしいのですが、その当時は梅が対象。桜で花見をするようになったのは平安時代頃からのようです。
さらに庶民が花見をたのしむようになったのは、江戸時代からのようです。現在の主流であるソメイヨシノは、実生では増えることができないので、接ぎ木により増やされています。このため、遺伝的には日本中のソメイヨシノが同じ(クローン)です。江戸後期に染井村で作られ明治以降日本中に爆発的に広まったものです。クローンであるため遺伝的特性のぶれが無く、同一の地域であれば開花時期がほとんど同じ頃になるのも特徴です。(だから、開花前線の指標となるわけです)


(1)左上 薪割りを頑張っている男性がいます。
 薪割りのおじいさんは、第1巻にも登場しました。

(2)飯ごう炊さんをしている人達がいます。
 飯ごうは、兵式飯ごうのようです。

※兵式飯ごう
 旧日本陸軍で使われていた「ロ号飯盒」が原型です。将校用には角形の飯ごうを使っていたので、兵士用の意味で「兵式」と呼ばれているようです。ソラマメ型の形状は、兵士が行軍の時、腰(あるいはザック)につけて安定するようにするためのデザインです。炊飯具であると同時に弁当箱と食器も兼ねていました。将校は、自分で腰につけて行軍しないから、へこみが必要なかったのでしょう。
 戦後、軍からの払い下げが一般に普及して、野外炊さんの定番になっています。
 尚、安野さんは、焚くのに飯ごうのアールを同じ方向に揃えて描かれていますが、交互に並べた方が火の回りが良いので、そのように指導しています。まあ、決定的なスキルではないのですが。

(3)左手前の人達は、手前の2人が串に刺した食材を持ているようなので、やはりバーベキューでしょうか。
左の黒い部分は、鉄板焼きかな?
手前の3人の内、真ん中は子どものようです。

(4)ちゃんと食卓が用意されているようです。エプロンがつけた人が運んでいます。

(5)川を挟んで手前の桜並木では、いわゆる花見の宴です。ブルーシートではなく、緋毛氈が敷かれているのが良い感じですね。
 ブルーシートの手軽さには、機能上劣るかも知れませんが、こちらの方が美しいですよね。審美性を犠牲にして機能性を取ったのがブルーシートだと思います。ここでも、安野さんはお手軽さに移行してしまう前の風景を描きたかったのでしょう。もっとも、私たちの所だと,緋毛氈というより花ござやござだったように思います。

※毛氈(もうせん): 
現存する日本最古のフェルトは、正倉院所蔵の毛氈(もうせん)である。奈良時代に新羅を通じてもたらされたとされる。近世以後は羅紗・羅背板なども含めて「毛氈」と呼ばれるようになるが、中国や朝鮮半島のみならず、ヨーロッパからも大量の毛氈が輸入され、江戸時代後期には富裕層を中心とした庶民生活にも用いられるようになった。現在でも、畳大の大きさに揃えられた赤い毛氈は緋毛氈(ひもうせん)と呼ばれ茶道の茶席や寺院の廊下などに、和風カーペットとして用いられている。


(6)左下 割烹着をつけた女性とお弁当を下げた女性がいます。
 割烹着(かっぽうぎ)は、調理や掃除などの家事労働の際に着物を保護するために日本で考案されたエプロンです。着物の袂が納まるように袖幅(袖の太さ)と袖丈(袖の長さ)が調整されています。


(7)割烹着のおばあさんとお母さんに、子どもが楽しそうに話しかけています。
(8)お母さんと手をつないだ女の子もうれしそうにしています。右の男性はお父さんでしょうか

(9)ゴミ箱にゴミを捨てている人がいます。
 現在の花見は、コンビニ弁当とかが主流になたこともあってか、膨大な包装材やペットボトルや空き缶が放置されたり、ゴミ箱の回りに山積みになっていたりします。以前の花見弁当は飲み物入れも弁当箱もリユースが基本でしたから、膨大なゴミが後に残ると言うことも無かったように思います。

(9)腰が曲がって杖をついている割烹着のおばあさんをエスコートしている男性は、息子さんでしょうか。

(10)緋毛氈の上では、風呂敷包みを広げています。風呂敷も繰り返し利用するのが当たり前で、使用後も持ち帰りやすく保管しやすい優れものですが・・・利用が減ってしまいました。絵本で使われているような大風呂敷にいたっては、ほとんどの家庭に存在しなくなっています。

※風呂敷
「 起源は定かではないようですが正倉院の所蔵物にそれらしきものがある。古くは衣包(ころもつつみ)、平包(ひらつつみ)と呼ばれていた。それが風呂敷と呼ばれるようになったのは室町時代末期に大名が風呂に入る際に平包を広げその上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにしたなどの説があるが明確ではない。言葉自体の記録としては、駿府徳川家形見分帳の記載が最初のものとされる。その後、江戸時代になり銭湯の普及とともに庶民にも普及した。なお平包の言葉は風呂敷の包み方の一つとして残る。」(ウィキペディア)
これが、一枚の布ではあるが様々の形状、大きさのものを包むことができるため広く普及していったということのようです。

(11)隣では、お母さんが弁当の包(中は重箱かな?)お母さんと子どもにおじいさんが見守る中、お父さんが今まさに緋毛氈を敷いているところ

(12)そのお隣は、すでに宴たけなわの様子。風呂敷は、テーブルクロスのように利用されています。
中央にどっかと座った男性は、「家長」のおじいさんでしょうか。差し出しているお椀は、お酒用でしょうか?ついでくれといって差し出しているのか、お前も飲めと渡そうとしているのか・・・一升瓶を持った男性がうつむいているのは何故?
もう酔っ払ってしまっているのかも

(13)隣の桜にはお父さんが抱えてきた緋毛氈を、ここに敷いてくださいとお母さんが指示しているようです。こちらもお弁当は風呂敷。

(14)その隣では、3人で食事を囲んでいるところへ、手提げ袋を持った女性が話しかけています。遅れて到着したのか、知り合いが通りがかったのか。

(15)右端のグループは、陽気に踊り出しています。子どもも、楽しげに踊っています。右隅の人ははちまきをしているようです。
何の踊りだろう。手をたたいて歌っている人がいます。いずれにしても、口三味線。CDプレーヤーもカセットラジオもありません。騒ぐといっても、自前の音だけです。
音源を簡単に持ち出せるようになったのは、便利なことですが、それによって失われた物があることに気づきます。l

※はちまき:
武士が武装する際、烏帽子が脱げ落ちるのを防ぐために、そのふちを布で巻いたものをはちまきと言いました。 「はち(鉢)」は頭(頭蓋骨)の形に見立てたもので、鉢(頭)に巻く布なので「はちまき」の名が付いた。 また、兜の頭の上部を覆う部分を『鉢』と言っていたのでここからきているとも。」
はちまきをして、気合いを入れる風習は日本独自と思われがちですが、東アジアに広がっているようです。

(16)飲食なしで、ただ踊っている男性2人は(15)のグループの人達と考えた方がよさそうです。

(17)右端 旅人の後ろを、子どもがロバに乗ってついて行き来ます。
 この組み合わせは、ドン・キホーテとサンチョを思い出させます。ドンキホーテなら、この宴会をみて、何を行っていると考えるのでしょうか?

(18)赤い布の屋根を広げた、茶店があります。団子の垂れ幕がかかり、実際に花見団子が出されています。

※花見団子
文字通り花見の時に食べる団子ですが、通常、桜色、白、緑の三色の団子が串に刺さっています。この三色のいわれは諸説有ります。たとえば・・・
@桜色はサクラで春を、白は雪で去りゆく冬を、緑はよもぎでやがて来る夏を表している。
A赤と白が縁起物の色であり、緑が草の色で邪気を払ってくれる、というもの。
B赤・白・緑の三色が神様が喜ぶ色とされているため、“神様と共に飲食ができる”というもの。
この他にもいろいろあります。
ところで、この花見のときに団子を食べるようになったのは,一説には豊臣秀吉のかの醍醐の花見がきっかけだとか。このとき、秀吉は日本各地の甘物を集めたそうです。初めてかどうかはともかく、なるほどなとおもわせる説です。

ちなみに「花より団子」の言い回しは、花見に団子がつきものであったころに、できた言葉なのでしょう。

(19)茶店の裏には自転車が立てかけてあります。

(20)旅の絵本恒例の大きなパラソルの柄は、桜の花びら模様でしょうか。

(21)赤字に花びらのパラソルの下で売っているのは・・・・たこ焼き?
でも、たこ焼きを袋詰めはおかしいので・・・多分今川焼きかなと
男性が買いに来ています。

※今川焼き(いまがわやき)
焼き菓子のひとつ。麦粉、卵、砂糖を水で溶いてつくった生地を円形のくぼみのある鉄製の焼き型に流し込んであんをのせ、その上にさらに生地を流し入れるか、別の型で焼いておいた同型の生地をのせて、高さの低い円筒形に焼いたもの。
江戸時代末期に江戸の神田今川橋近くの店から売り出されたためにこの名がついた。
ただ、別名も多様で
その形に由来した別名として太鼓焼き、義士焼き、大判焼き。
これを焼く専用の機械の動きから回転焼きとも呼ばれる
その他・・・二重焼き、夫婦まんじゅう、フーマン、御座候などなどきわめて多様で、ウィキペディアに載っているだけで25種。
ちなみに、私の子どものころは、夫婦まんじゅう(ふうまん)と呼んでいた・・・できたては熱いのでフーフーして食べるからかな?
→片側ずつ焼いて一つに夫婦合わせをして焼き上げる。二つの鉄板を合わせて作る様が夫婦のようだからとも

(22)白地に赤のパラソルの下では、魚を売っているように見えますが、・・・花見の場所で魚屋さんも場違いなので、色合いからしても多分鯛焼きであろうと思います。
お母さんと子どもが買いに来ています。

たい焼き(鯛焼き、たいやき)
今川焼きから派生した食べ物。鯛の「焼き型」に入れて焼いた食べ物であり、餡(あん)入りで小麦粉主体の和菓子である。明治時代から食べられている日本の菓子の一つ。たい焼きとしての発祥については、説が複数あり定かではない。

(23)傘の影に頭部が隠れた男性2人はなにをしているのでしょう?

(24)大きな風呂敷包みを持った女性が歩いています。どのグループの所へ行くのでしょうか?
(25)自転車に大きな風呂敷包みを積んで押している男性がいます。
昔の自転車は、物を積むことが前提で作られていたので、荷台も大きく頑丈でした。

(26)荷台に酒瓶を積んで押している男性。配達かな。

(27)右ページ下、3軒の家が並んでいます。くっついているので、実際には街中の家でしょう。真ん中の家に男性が入ってゆきます。

(28)右の家は、お米屋さんのようです。
写真は、津和野の「鯉の米屋」と呼ばれるお米屋さん。
 この店の奥の庭にある池では、色とりどりの錦鯉が群れをなして泳いでいて、無料で見学できます。ここでは、池は描かれていませんが、旅の絵本の米屋さんのモデルではないかと考えます。


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場面5 田起こし・田植え
(0)旅人は 田起こしをし、田植えをするところにやってきました。季節は初夏と言うところでしょうか。

(1)左上 この建物は、森鴎外の生家です。津和野にあります。

森鴎外は、本名は森 林太郎(もり りんたろう)。津和野出身です。幼少より英才の誉れ高く、9才にして15才相当の学力と評されたそうです。
1872年(明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京しています。軍医として最高位につきながら漱石と並ぶ文豪でもあります。
安野さんにとって、郷里のスターであったことでしょう。特に「即興詩人」を深く愛して、その美文調をよしとしながら口語訳をされたり、絵本を出されています。

(2)鴎外生家の前で、馬を連れた人が立ち話をしています。

(3)牛を使って、田起こしをしています。
使われている農具は、短床犂(たんしょうすき/中床犁)といいます。
この犂は、安定しているが深く耕せない長床犂(唐犂)と、深く耕せるが不安定な無床犂の、それぞれの長所を取り入れた改良犂です。日本人が改良した物で大正時代から昭和30年頃までの日本の犂は、ほとんどがこの犂でした。その後、耕耘機が導入されると牛馬と共に農村から姿を消してしまいました。
ちなみに、写真は馬を使って耕していますが、西日本では牛、東日本では馬を使うのが一般的であったようです。

(4)右ページ下は、ため池のようです。

(5)上の田では、代かきまぐわ(馬鍬)を使って、代かきをしています。
 この農具は、まんが(馬鍬)とも呼ばれ、土の固まりを細かく砕く農具で、畜カを利用したものです。牛・馬に引かせて田畑を耕す耕作機です。犂で耕しただけでは、土の塊が大きくて、田植はできません。田植え前の準備もなかなかの重労働です。

(6)着飾った早乙女が、一斉に田植えをしています。
もちろん、通常の田植えではこのように着飾りません。あくまで行事としての衣装です。
衣装はともかく、以前は田植機など有りませんから、親戚が集まり、大勢で横一列に並んで一斉に植え付けていたものです。

(7)畦を、天秤棒と苗籠を使って苗を運んでいる人がいます。
箱苗になる前は、苗代で育った苗を束ねてこのように田んぼまで運んだものです。苗かごは、苗束が落ちない程度で水切りができるよう荒くできています。

現在では、田植機を使わず手植えをする場合でも、箱苗を使うことがほとんどのようです。右のように大きくなった苗を、運ぶのも植えるのも、大変でした。
備後地方(広島県の東部)は、以前は畳表に使うい草の栽培が盛んで、い草と稲の二毛作をしているところがありました。その場合、い草の収穫が終わるまで田植えができませんでした。すると、苗は随分大きくなっていて、それを使っての田植えは大変な苦労をされていました。

(8)手前の畦には、嬰児籠(イジコ・エジコ)に入れられた赤ちゃんがいます。
 親が子どもに手が掛けられないときは、このようにしておいたようです。ある程度大きくなるまでは、こうしておけば歩き回らず、長時間手を掛けなくても比較的安全だし、絵のように田んぼの近くまで連れてきておくことができたわけです。
※嬰児籠(イジコ・エジコ)
赤ちゃんを入れる藁製の籠のこと。(藁以外のものもあったようです)。
藁製であるため、夏場は通気性があって蒸れず、又袋に入れた灰や藁のをエジコのそこに強いていたので、冬でも暖かかったし、オシッコをしてしまったら、灰や藁を捨てる(田畑に入れる)という、ある意味とてもエコロジカルな(ゴミを作らない)ものだったようです。そして、赤ん坊はむずがるときには、エジコの下に太鼓のバチくらいの棒を入れると、ゆりかごのようになってあやせるという優れものだったようです。まさに「万能子守籠」だったようです。私は、使っているところを見たことがありません。
東北で、少し上の世代の人に聞いたら、使っていたとのことでしたから、安野さんの回りでも使われていたのでしょう。

(9)エジコのそばには、おじいさんが子どもをおんぶしています。
 歩き回れるようになるとおんぶして子守りです。子守りは、こどもや高齢者のお仕事と言うわけです。

(10)家の裏の畑を、白い犬と一緒に掘っているおじいさん?がいます。
これは、はなさかじいさんでしょう。

♪うらのはたけで、ぽちがなく
しょうじきじいさん、ほったれば
おおばん、こばんが、ザクザクザクザク

(11)茅葺きの農家があります。この建物・・・西周の旧宅がモデルではないかと思います。
※西周旧宅
西周が1833年(天保4年)4才の時から1853年(嘉永6年)25才になるまでまで過ごした旧宅です。西家は津和野藩の代々御典医を勤めた家柄。長男だった西周は優秀で、20才で藩校の長官をつとめ、25才の時には江戸藩邸の教官となっています。1862年(文久2年)には幕命を受けてにオランダに留学。明治新政府にも迎え入れられている。森鴎外とは親戚。

(12)農家の近くを水路が流れています。西周の旧宅のそばにも、小川があります。

(13)農家の軒下に万石通し唐箕石臼が有ります。

※まんごくとおし)
万石とも。もみすり後の玄米ともみ殻を選別するための農具。上部にある漏斗(ろうと)からもみ殻の混じった玄米を傾斜させた数枚の金網の上に流下させると,玄米だけが網面から落下するので,これを数回繰り返して選別する。

※唐箕(とうみ)
収穫した穀物を脱穀した後、籾殻や藁屑を風によって選別する農具。
文字通り中国で開発され日本に入ってきた農具です。

※石臼(ひき臼)
 石臼は、つき臼とひき臼が有りますが、これは回転をさせて穀類等を粉にひくための碾き臼です。
上下2個の、平たい円筒状の石臼です。上臼の穴から穀物を落とし、回して粉にします。上下の石の接触面に多数の溝があって、そこで穀物が砕かれ、また、外に送り出される仕組みになっています。。
かつては、多くの家庭にありました。しかし時の流れとともに姿を消してしまいました。庭石や石垣などの石材としてリサイクルされているのを時々見ます。
 石臼のすばらしいところは、食品の成分を高い温度で壊したり、加工中に急速に酸化させることがないのです。このため、素材の栄養素を破壊することなく粉にする事ができます。

(参考)昔の農具・・図解入り 暮らしの民具

(14)軒下に下がっている赤い物は何でしょう?

(15)随分腰の曲がったおばあさんが杖を突いて歩いています。
今時、こんなに腰の曲がった老人はほとんど見なくなりました。
昔の老人は、過酷な労働のせいかこのように腰の曲がった人が多くいたように思います。

(16)上部には林の中に掘っ立て小屋が描かれています。作業小屋でしょうか?

(17)右上 旅人は馬に乗って通り過ぎて行きます。

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場面6 花田植え
(0)旅人は、花田植えが行われている郷にやってきました

 西日本には大太鼓や小太鼓、笛や手打鉦で囃し、早乙女が田植歌を歌いながら植えていくという風習がありました。サンバイ(田の神)を祭って無病息災と豊穣を願う農耕儀礼であるとともに、重労働である田植作業を楽しくこなすための工夫でもあります。現在も西日本各地に伝統芸能として伝えられています。

(1)左上 映画の撮影が行われています。安野さん自身が「七人の侍」の撮影シーンだと書かれています。
映画の最後に田植えのシーンが出てきます。

『七人の侍』(しちにんのさむらい)は、1954年(昭和29年)に公開された日本映画。監督は黒澤明。
日本の戦国時代を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。
世界中の映画人に絶大な影響を与え、未だに色あせない映画です。3時間半にもおよぶ長編です。

(2)右から馬に乗って攻めてくるのが、野武士集団。ここに、描かれているのは2騎だけですが、映画では40人の荒くれもの集団。最終場面で13騎になっていました。
 ただ、この絵からは、なんとなく流鏑馬(やぶさめ)の雰囲気を感じます。安野さんの故郷である津和野には、「鷲原八幡宮大祭 流鏑馬神事」なるものがあります。安野さん、この行事も意識されているのではないかと思います。

(3)騎馬で襲いかかる、野武士を迎え撃つがわ、竹槍を持っている集団は、7人の侍に特訓を受けた農民。ということでしょう。
中の一人は、加藤大介演じる、唯一の槍の使い手である七郎次(しちろうじ)ではないかと思います。一番右の人かな?

(4)とんでもなく長い刀を掲げているのは、三船敏郎が演じる菊千代(きくちよ)でしょう。上記ポスターで中心に描かれいています
元々は百姓の出で、戦で親を失い孤児として育ったのですが侍になりたくて系図を偽造したという設定。型破りで特別に血がたぎった熱い男で、百姓と侍を結びつける仲介役になります。
 個人的には、戦国時代という設定なら、身分としての侍が固定していなかったと思われるので、時代考証的に疑義があります。
それはそれとして、面白い役回りだと思います。こういう人物を設定するところが黒沢さんのセンスの良さですよね。

(5)その後ろに弓を抱えて立つのが、志村喬が演じる島田 勘兵衛(しまだ かんべえ) のようです。
そろそろ五十に手が届く歴戦の武士で、人望も厚く七人の侍を率いているリーダー的存在。彼の人徳があったからこそこれだけ優秀な人材が集まったといっていいのでしょう。沈着冷静、頭脳明晰、しかも優しくてぜんぜん偉ぶらない人格者。弓の名手で、戦力面でも大活躍です。

(6)その後ろで抜刀して下に構えているのは、宮口精二が演じる久蔵(きゅうぞう)でしょう。
修業の旅を続けている、武蔵を連想させる凄腕の剣客です。世の中で頼りになるのは自分の腕だけだと思っていてストイックです。勘兵衛の評価は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」。それでいて、優しさが隠されている。かっこいいですね。フランスでは7人の中で、久蔵が一番人気だとか。

(7)脚立の上で、はたきのようなものを振っているのは、監督の指示で、役者に合図を送っているのでしょうか

(8)脚立の下に立つ男の人が、世界の黒沢明監督でしょう。
 やたら、こだわりの強い監督だったようで、良い映画を撮るためならかなり無理をしたようです。このシーンも田植え前の季節のはずなのに、撮影が延びに延びて真冬になり、撮影当日オープンセットには雪が積もっていた。雪があってはつじつまが合わないので、水をかけて雪をけしてしまったら、足下がどろどろになってしまった。なら、雨の中の合戦だということで、結果そのことが映像的にはさらに、すごみを増す結果になったようです。これも、偶然と言うよりそれなりに直感的な読みなり意図があったのでしょう。

(9)カメラを回している人がいます。 中井 朝一(なかい あさかず)でしょう。
七人の侍を始め多くの黒沢映画で、撮影監督をつとめたカメラマンです。

(10)背後と向こう側に、竹槍を持った人が立っています。出番を待っているエキストラでしょうか。

(11)右ページでは花田植えが行われています。
 七人の侍の最後に、野武士集団を破った、村人たちが行う田植えのシーンが出て来ます(右の写真参照)
このシーンと重ね合わせているのでしょう。

ところで、安野さんはどこの花田植えをモデルにされたのでしょうか?
なんと言ってもユネスコの無形文化遺産に指定されている。広島県の「壬生の花田植(みぶのはなだうえ)」ではないかと考えますが・・・早乙女の笠のデザインが異なります。安野さん得意の手直しの可能性も大です・・・。
壬生の花田植え(ウィキペディア)
壬生の花田植え(ちばあきおさんの写真のページです。とても詳しく撮られています)
(0)に載せた写真は、安芸高田市八千代本郷での花田植えです。花田植えとしてはこじんまりとしていますが、逆にそっくりです。

(12)花田植えには、太鼓がつくとより一層華やかなものになります。
安野さんは、畦でダイナミックに太鼓をたたく人を描いておられます。
七人の侍の田植えのシーンでも、着飾ってはいませんが村人が太鼓をたたいていました。
切手は、壬生の花田植えです。

(13)花田植えをしている脇のあぜ道に立つ人がいます。
 これは、七人の侍で、百姓たちが活き活きと田植えをする姿を見守る島田 勘兵衛ではないかと思います。
初夏、脅威から逃れ平和を取り戻した村では歓喜の中で田植えが行われる。
その様子を戦で生き残った勘兵衛、七郎次、勝四郎の3人が眺めています。勘兵衛は威勢よく田植えをしている百姓を眺めながら、「勝ったのはあの百姓達だ。俺達ではない。百姓は土と共に何時までも生きる」とつぶやくのです。

(14)上の田では、田作りが行われています。牛に引かせている農具は、犂(すき)です。ここで使われている犂は長床犂(ちょうしょうすき)が使われています。
中国から伝わった事から唐犂(からすき)等とも呼ばれています。この犂は、無床犂に比べて格段に安定していてつかいやすいのです。ただ、深く耕せないので、日本で両者の良いところをとってつくられたのが前の場面に登場した短床犂です。安定していてしかも深くたがやすことができます。もっとも、深く耕す必要のない田では長床犂が優れていると言うことでしょう。

(15)下の田でも、田均し(たならし)が行われているようです。田植えの為に田の表面を平らにする行程です。
牛が引いている農具は田均し棒ではないかと思います。
前の場面でも出てきた馬鍬かもしれませんが・・・安野さんは、日本編では農具を細かくかき分けておられるので、別の農具だと思います。

(16)撮影の下あたりの農家の庭には、犬と2羽のめんどりと1羽の雄鶏がいます。
(17)莚が引かれて、何か干しています。田植えの時期に干す物といったら何だろう?

18)建物にには広縁(ひろえん)が描かれています。昔の農家には必ずと言って良いほど、広縁があったもです。

(19)入口の右に掛けられている丸い物は何でしょう?
 みのかさ?ざる?

(20)茅葺きの建物の広縁には、何かが並べられています。何でしょうか?中身は不明ですが、入れ物は叺(かます)ではないかと思われます。
むしろを二つ折にして両端を縫い合わせたものです。主として穀物類の入れ物に使われました。

(21)軒下には、おなじみの洗濯物が干してあります。安野さんは、旅の絵本の各巻のあちこちに洗濯物を描かれています。やはり、そこで人が生活していることを、ビジュアル的に示すには、洗濯物の存在がふさわしいのかな。

(22)下 製材所があります。表紙に続いて二度目です。
ここでは、丸鋸を使った製材が行われいてます。

(23)製材所の右で、丸太を整理する人が持っているのは鳶口(とびぐち)です。
 長さ1.5〜2mほどの木製の棒の先に、名前の由来となったトビの嘴の様な金属製の金具が取り付けられている道具です。木材運搬では先端部や小口や末口に引っかけて運搬作業を行います。

(24)製材された木材を、大八車を使って運んでいます。
 前を引く男の人と、後から押している女性は夫婦でしょうか

(25)大きな風呂敷を背負った男性2人が歩いています。行商の人でしょう。
庶民の生活に車などなかった時代、運搬は大八車やリヤカーの利用。そして、人が担いで運ぶののが当たり前でした。

 富山の置き薬屋さんは、こんな大きな荷物を背負って家々を回ってこられたものです。置き薬の販売業は300年以上も前から富山で始まった商法です。前金は取らずに、薬を置いていって、必要に応じて使うと、次に回ってこられたときに代金を払い、薬屋さんは古くなった薬を回収し代わりの薬を補充してくれました。
 お得意先を訪問するとき、売薬さんは「懸場帳(かけばちょう)」という帳簿を持っておられたようで、家族構成やら健康状態や使用量まで記録されていて、それに基づいて補充されていたようです。また、薬の使い方などのアドバイスもされていました。子どもには、紙風船とかをくれていました。

以前は、我が家にも2軒の置き薬屋さんが、薬箱を置いておられましたが、いつのころからか回ってこられなくなりました。営業の人の確保が難しくなったのでしょうか。
今では、いたるところにドラッグストアができて、薬が必要になれば、すぐにでも手に入るようになったので、ありがたみが減っているでしょうが。後払いシステムも含めて便利なシステムでした。今でも、会社は続いているようですが、風呂敷包みではなくなっているそうです。
右の写真は、富山駅にある、薬の行商さんの銅像です。

富山の売薬(ウィキペディア)

(26)右下 旅人が馬に乗って通り過ぎて行きます。

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