場面2 上陸
(0)旅人は 上陸しました。ここは、どこでしょう。海は広く開けて島影が見えません。太平洋沿岸でしょうか。津波に襲われる前の高田の松原のイメージのようです。
高田の松原は、日本百景にも数えられる白砂青松の浜で、陸前高田のシンボルでした。
江戸時代の1667年(寛文7年)に、高田の豪商によって防潮林としてつくられました。樹齢300年を超えるおよそ7万本もの松が続いていました。何度も、津波に襲われ、高田の町を護ってきましたが、2011年3.11の大津波は松原も根こそぎ奪ってしまいました。
(1)上陸した旅人は、早速海辺の人と話しています。
指さしているのは?「向こうから来たのか」なんていっているんですかね。
子どもが旅人の船の引き綱を持っています。
(2)ここでも魚とイカの干物が作られています。
化石燃料や電気を使わず,太陽光の恩恵を受けて作られる干物です。
(3)屋根にはカモメが1羽止まっています。小屋の中には作業をしている人もいます。
(4)ドラム缶が2個あります
(5)引き上げられた、船の脇にはカニがいます。カニと言えば、
「一握の砂」 石川啄木
我を愛する歌
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
大海にむかひて一人
七八日(ななやうか)
泣きなむとすと家を出でにき
いたく錆(さ)びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
ひと夜さに嵐来りて築きたる
この砂山は
何の墓ぞも
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
砂山の裾によこたはる流木に
あたり見まはし
物言ひてみる
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
しっとりと
なみだを吸へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな
<以下省略>
全文は「青空文庫」で
読むことができます。 |
石川啄木の「一握の砂」が思い出されます。
啄木は1900年(明治33年)、盛岡中学3年の時、担任の富田小一郎先生に引率されて級友たちと三陸へ修学旅行に行っており、その際高田の松原に立ち寄っているのです。「一握の砂」は1910年(明治43年)に出版されていますので、この時作った詩というわけではありませんが、この時の経験が大きく生かされているのだろうと思われます。
そんなわけで、高田の松原に、啄木の歌碑が建てられました。ところが、この歌碑は1960年(昭和35年)のチリ地震による津波で流されます。その後、歌碑は見つかりますが、別の場所へ移され、代わって金田一京助揮毫の歌碑が建設されましたが、これも3.11の津波で流されてしまいました。現在まで未発見です。
尚、歌碑に刻まれた詩は
でした。
この詩が、被災者とともに海の底にあると思うと、不思議な気がします。
(6)砂浜の反対方向に、4頭の馬を引いた男女がいます。
旅人が乗ることになる,馬と言うことでしょうか?
だとすると、さっきの男性が指さしていたのは、馬を連れたこの人たちだったことになります。
(7)左ページ下 松林の中に亀をいじめている子どもたちと、浦島太郎がいます。
「浦島太郎(うらしまたろう)」
作詞作曲者不詳/文部省唱歌(二年)
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昔昔(むかしむかし)、浦島は
助けた亀(かめ)に連れられて、
龍宮城(りゅうぐうじょう)へ来て見れば、
絵にもかけない美しさ。
乙姫様(おとひめさま)の御馳走(ごちそう)に、
鯛(たい)や比目魚(ひらめ)の舞踊(まいおどり)、
ただ珍(めずら)しくおもしろく、
月日のたつのも夢の中(うち)。
遊(あそび)にあきて気がついて、
お暇乞(いとまごい)もそこそこに、
帰る途中(とちゅう)の楽しみは、
土産(みやげ)に貰(もら)った玉手箱(たまてばこ)。
帰って見れば、こは如何(いか)に、
元(もと)居た家も村も無く、
路(みち)に行きあう人々は、
顔も知らない者ばかり。
心細(こころぼそ)さに蓋(ふた)とれば、
あけて悔(くや)しき玉手箱、
中からぱっと白煙(しろけむり)、
たちまち太郎はお爺(じい)さん。
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安野さんは、何故このシーンに浦島太郎を描かれたのか?
深読みのし過ぎかも知れませんが、浦島太郎が竜宮城から帰ってくると、非常に長い時が経過しており、全く異なる世界を訪れたようになっています。
これは、津波によって、一本松を残して家も松林も跡形も無くなってしまった陸前高田の現状と、重なります。
故郷を離れて旅に出ていた人が、現在の状態の高田に戻ってきたときの、たまらない寂しさと重なるように思うのです。故郷を離れていなかった人にとっても、一本松を残して家も松林も無くなった高田の人達にとって、浦島太郎の感じた喪失感を共有しているようにも思います。
ただ、浦島太郎と違って、高田の人達は、新たにコミュニティーを再構築すべく、今も努力されています。昔の高田には戻れないでしょうが、「復興」を目指しておられます。それは、高田に限らず大槌など被災地全般にいえることでしょう。
もう一つ深読み、
浦島太郎と言えば「玉手箱」ですが
開けてはならぬと釘を刺されていた玉手箱を浦島太郎は開けてしまいます。
その結果、さらに悲しい結末になってしまうわけですが・・・・
玉手箱を開けるという行為は・・・知的好奇心の抑制ができなかった・・・と考えると
原子力発電という、今にして思うと禁断の技術に手を出してしまった、私たち日本人の「過ち」を暗に示している可能性もあります。あるいは、玉手箱の白煙が、水素爆発と放射性物質の放出も連想させます。
まあ、勝手な深読みですが。
ウィキペディアの浦島太郎
浦島太郎<福娘童話>・・・たくさんのパターンの一つです。
(8)藁葺き(茅葺き?)屋根の民家が3軒並んでます。
真ん中の家の軒下には船が置いてあります。
(9)洗濯物が干してあります。
安野さん、洗濯物を描くことが多いです。生活の象徴なのかな。
(10)ページ中央:大きな一本松が立っています。これは、陸前高田の松原の中で、津波の襲来に耐えて一本だけのこった「奇跡の一本松(希望の松)」です。
高田のみならず被災地復興のシンボルとなった「奇跡の一本松」ですが、地震に伴う地盤沈下のため海水がしみこみ塩分過多となり、時間の経過と共に樹勢が衰えてきました。関係者の懸命の努力にもかかわらず、ついに枯れ死してしまいました。
そこで、奇跡の一本松保存基金を募りました。2012年7月には一度切断して内部に防腐処理を施しつつ金属製の心棒を通し、元の場所に戻して保存しました。
(11)一本松の右の家は、軒の下が茶店になっているようです。
松原見物のお客さんが相手でしょうか
ちなみに、一本松の写真の背後に写っている建物は、陸前高田ユースホステルでした。多くの若者や旅人が集ったのです。この、茶屋はユースホステルの存在を暗示しているのでしょうか?
(12)天秤棒で水?を運ぶ男性と、両手に持って運ぶ女性がいます。
ここには、水道が来ていないようです。
水道の便利さを思います。水くみも水運びも大変な苦労です。そんな生活が、日本にもあった。
自然災害の後、ライフラインが絶たれて、この便利さを失いました。空気のように当たり前にあって、私たちの生活を支えてくれるもののありがたさに、気づかされました。
ただ、今の便利さのために捨てた(無くした)事の何と大きいことかとも思います。
場面3 レンゲ畑
(0)旅人は、レンゲ畑の広がる郷にやってきました。時は春ですね。
そしてここには、合掌造りの家が並んでいます。
世界遺産に指定された、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」であろうと思います。なかでも、富山県南砺市(旧平村) 越中五箇山 相倉(あいくら)合掌集落がモデルになっていると思われます。
これだけの集落が残されたのは、交通の便が悪かったことも理由の一つ。集落の歴史の中でも、塞翁が馬はあるようです。
※
合掌造り: 「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけられています。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されているます。
合掌造りの屋根はおよそ45度から60度で、後期になるほど急傾斜です。この傾斜は、豪雪の中で雪下ろしをしなくても良いように、雪が滑り落ちやすくした合理的なものです。
また、垂直に立つ柱ではなくこの三角形の構造で支えられているため内部は広々とした空間が作られています。また、原則藁縄で縛って釘を使っていないことが、雪や風に対してしなやに耐える力を生み出しているようです。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、その著書 「日本建築の基礎」(於華族会館、1935年10月)の中で
『これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である。』
と記しているそうです。
(1)左下 旅人が馬を手に入れています。
この馬は、前のシーンで引かれていた4頭の内の2頭でしょう。そして、話している男女も前のシーンの男女でしょう。
岩手と富山では、はなれすぎているようにも思いますが、これくらいの距離をワープするくらい、安野さんの力ならなんてことない・・
(2)合掌造りの家では、屋根の葺き替えがされています。ご近所さんが出てきて、協力しています。
屋根の上に7人が上がってます。急傾斜で大きな屋根だから大変です。ひとり、てっぺんで遠くを見ています。レンゲ畑の様子を見ているのでしょう。
合掌造りは保全のために、大規模な補修や屋根の葺き替えを20年〜40年に一度行う必要があります。屋根の葺き替えは、雨等のことを考えると1日でやり終えなければなりません。これには、たくさんの人手が必要になります。そのために近隣の住民で「組(くみ):互助組織」を作って、「結(ゆい)」を行います。
(大きな屋根でどうしても1日で終えることが出来ない場合、作業量に応じて分割しての葺き替えになります)
屋根材に使う茅(かや=ススキ)は、集落で茅場を維持し、毎年刈り取って乾燥保管しておいてこのような作業の時に持ち寄って使うようです。色々な意味で、地域が助け合うことが前提になっています。
現在の都会のような他者からの干渉が少ない生活に比べて、関わり合い助け合う文化があったのです。これも、現代社会にその良い部分をよみがえらせたいことの一つです。
(3)中央に2棟ならんだ住宅は、相倉集落の、右の写真の家がモデルでは無いかと?
軒下には、はしごが吊されています。葺き替え作業にも使われることでしょう
(4)山羊が3頭飼われています。女の子とおばあちゃん(お母さん?)が手をつないで見ています。
昔はヤギを飼育している農家がよくありました。主にミルクを得るために飼育されていたものです。ウシよりも飼育が簡単で、ウシのミルクよりも栄養価が高いといいます。そのため、今でもヤギを飼育しておられる家もありますが、随分減ってしまいました。
山羊と女の子といえば、田島征三さんの「やぎのしずか」のシリーズが思い出されます。
(5)井戸があります。珍しくはねつるべが使われています。てこの原理を利用したくみ上げ方式です。
※はねつるべ: 柱の上に横木を渡し、その一端に石を、他端に釣瓶を取り付けて、石の重みで釣瓶をはね上げ、水をくむ道具です。
安野さんは、これも電力に頼らない生活の在り方として、描かれているのだと思います。ところで・・・
『荘子』「外篇・天地第十二の7番目の説話には、便利さを追求することは、大切なことを失ってしまうことにつながる。その便利さをもたらす道具のたとえとして、はねつるべが出てきます。なかなか、興味深いです。
孔子の弟子の子貢が、大変な苦労をしている老人に、大変便利な道具があるから使ってはどうかとはねつるべを紹介します。
ところが、その老人は、師匠の言葉として以下の考えを紹介します。
「仕掛道具が作られると必ずたくらみごとが行われるようになる。たくらみごとが行われるようになると必ず知巧を弄するたくらみ心が起ってくる。たくらみ心が胸中に生じると人間の純粋潔白な本来の心は害(そこな)われ、本来の純粋潔白さが害われると霊妙な生の営みはかき乱されて不安定となる。霊妙な生のいとなみが不安定になれば、根源的な真理はもはや彼の生活を支えなくなってしまうのだ」このように教えられているので、はねつるべのことは知っているけれど、利用しないのだというのです。
ふりかえって、安野さんが、旅の絵本の中ではねつるべを出してくるのは、水道などの便利な生活の対極としてだと思います。ですから、はねつるべを通して安野さんが訴えたかったことは、荘子のこの考えに通じるものではないかと思います。
(6)右上 杖をついたおばあさんが、竹藪に向かって歩いています。
竹藪に行くおばあさんと言えば・・・舌切り雀にでてくる、欲張りばあさん?
ちょっと、深読みのし過ぎかも知れませんが、欲張りの戒めは、協働で助け合って生きている「結」の対極の存在としてここに描かれたのかも知れません。また、自然との折り合いの付け方についても考えることのできるお話です。
したきりすずめについての考察を見ることができます。
えほんおじさんのぶろぐ
http://www.kibiehon.net/ehon/BC45/SSuzume/ehon.php
お話は、
青空文庫で 楠山正雄の『舌切りすずめ』 と
福娘童話集 「舌切りすずめ』 で読むことができます。
(7)森にはシカが2頭います。
(8)の猟師の獲物として描かれているのかも
あるいは、「もののけ姫の」シシガミ様??
(8)森の中にいるイノシシを狙う、犬を連れた2人の猟師がいます。
猟師の格好が、西洋ぽいのですが・・・スポーツハンティングでしょうか?
となると、
宮沢賢治の児童文学『注文の多い料理店』が思い出されます。
これも、お金が全ての欲深い人間、自然との折り合いを忘れた都会人のお話でもあります。
青空文庫で『注文の多い料理店』を読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html
ウィキペディアの『注文の多い料理店』
もう一つ別の見方
「ものけ姫」でシシ神や猪神である乙事主(おっことぬし) などの存在に対する、対立軸として存在する
エボシ御前に率いられる石火矢衆。
妄想気味ですが、そんなに外していないのでは・・・・
(9)田んぼにはレンゲ(ゲンゲ)の花が咲き誇っています。
最近では、見ることの少なくなった昔懐かしい、田園風景です。
レンゲは、豆科の植物ですから、根には空中チッソを固定する根粒菌がついていて共生しているのです。このため、チッソを充分蓄えたレンゲを田んぼに鋤こむと、自然のチッソ肥料になり、稲の収量を格段に伸ばすことができます。また、養蜂家に取っては良質の蜜源ですし、牛の飼料にもなりました。ですから、日本中でレンゲ(ゲンゲ)の栽培が奨励されていたのです。
こんな、いい話ばかりのレンゲ畑ですが、1980年代になると、レンゲ畑は減少して行きます。1990年代になると、珍しい存在になってしまいました。化学肥料の利用が推進されたことや機械化によって役牛としての牛の飼育も減りますし、田植えも田植機になってゆきました。田植機での田植えをでは、レンゲの鋤こみが不十分だと、レンゲの茎等が邪魔をしてうまく苗がつかないのです。鋤こむ作業を増やさなければならないそうです。
機械や化学肥料の利用という、便利さの追求がレンゲ畑の激減につながったわけです。
しかし、無農薬有機農法の価値が見直されるようになって、「レンゲ農法」が再度見直されていまます。
(10)レンゲの花以外にピンクの花をつけている木があります。桜の木でしょうか?
次の場面が花見なので、それの前ぶりなのか、それにしては描き方が異なるようにも思えます。桃の木か?
(11)レンゲが植えてある田んぼは、石垣を積んで棚田のようです。
でも、その石垣は緑っぽく描かれています。石垣の間からたくさん草が生えてきているようです。
(12)シカと猟師の間に小屋のようなものが見えます。これはなに?
料理店にしては、粗末ですが?
(13)イノシシの手前に並べられている木は何?
木柵?でしょうか、椎茸の原木でしょうか?どうも、椎茸の原木のように見えます。もう、椎茸が出てきているようです。
(14)池には蓮が植えてあるようです。
蓮から飛び込んでいるのはカエル?でしょうか??
何かの物語等に関係するのでしょうか??
(15)左ページの草原の中に、小鳥が描かれています。
これは何??
舌切り雀のスズメではないかと考えます。ここに、ノリを食べしまうスズメを配置することで、(6)のおばあさんを舌切り雀のおばあさんにしているのではないかと思います。
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