を遊ぼう」8−1(日本編)

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「旅の絵本」の8作目は日本編です。
今回の旅は、安野さんのふるさと津和野を始め、徹底して田舎です。ついに、一度も都会へ入りません。半世紀くらい前の日本の田舎は、電気に頼ることも少なく、人力や畜力あるいは自然の力を伝統的な工夫で生かしていました。
日本の懐かしい風景は、大電力のいらない(原子力発電に頼らない)生活でもあります。
旅人は、何を見考えるのでしょうか。

日本編が発売されています。気づかれたこと、どんどんメールや掲示板でお知らせください。
同名の「『旅の絵本』を遊ぼう」でFBにグループを作りました。公開のグループですので、是非ご参加ください。


」8
「表紙・裏表紙」 「前扉」    場面1 海辺  場面2 上陸  
場面3 レンゲ畑場面4 花見場面5 田起こし・田植え場面6 花田植え
場面7 草競馬場面8 駅前場面9 商店街場面10 二十四の瞳
場面11 牧場場面12 盆踊り場面13 パレード場面14 花嫁行列
場面15 収穫の秋場面16 相撲場面17 秋祭り場面18 お餅つき
場面19 舟屋 場面20 漁港場面21 再び海へ「裏扉」


表紙・裏表紙

0)旅人は・・・SLの走る町へ来ています。安野さんの故郷の津和野でしょうか。
 ところで、表紙には旅人が見えません。どこに隠れているのでしょう?
以前にも、スペイン編の表紙でも旅人が見つかりませんでした。一方、日本編の場面8ではちょっと見不在ですが、隠れているところが見つかりましたので、徹底的に探せば体の一部が見えているかも・・・旅人をさがそう!!

1)左上 SLが走っています。津和野だとすると、SLやまぐち号
 西日本旅客鉄道(JR西日本)が山口線の新山口駅 - 津和野駅間で運行している臨時快速列車です。
SL「やまぐち」号は、2013年には、5月3日(金・祝)〜11月3日(日)の間、70日間運行されます。安野さん日本編の発売を5月にしたのは、やまぐち号と逢わせたのか?考えすぎですかね。
国鉄時代の1979年に運行が開始されています。機関車はその流麗な姿から愛称が「貴婦人」とされたC57形の1号機(C571)と、一回り小さくて愛称が「ボニー」のC56形の160号機(C56160)す。坂の多い山口線は、C56では客車を2台しか牽引できないのでディーゼル車やC57との重連での運用が多いようです。
鉄道はそんなに詳しいわけでは無いので、あまり自信がありませんが、シルエットはC57よりC56が近いと思います。
機関車の煙突の後ろの盛り上がりが表紙では2つあるようです。C57は細長い盛り上がりが1つで、C56は2つなのです。

上の写真はC56とディーゼル車との重連で牽引するやまぐち号です。
右の写真は、C57が単独で牽引しているやまぐち号です。
表紙の絵は、一台の蒸気機関車が引っ張ってます。C57の方が、全体としては表紙の絵に近い気もしますが、あえて安野さんC56単独での運行にされたのではないかと?

2)煙の向こうに人影が、農作業の手を休めて汽車見ている人と、両手を振る子どもです。
3)SLの手前にもSLに手を振る子どもが二人。第1巻の中欧編にも、SLに手を振る二人の子どもがいました。

4)材木を整然と並べている人がいます。
5)材木を荷馬車で運んでいます。このパターンも第1巻に出てきました。

6)つぎはぎの屋根の建物は、製材所のようです。
7)青っぽい洗濯物があります。藍染め?絣でしょうか?

8)女性が、裏表紙に向かって歩いています
 右手に何か重そうな物を持っています。水桶??

)自転車が2台走っています。前(右側)の子どもは三角乗りをしているようです。
 ↑右足の手前にトップチューブが描かれています。
 「三角乗り」と聞いて、思い当たる人は50代以上かなと思います。
かって、子ども用の自転車なんてほとんどありませんでした。また、女性用自転車(ママチャリ)もほとんどありませんでした。
右のイラストのようなダイヤモンドフレームがほとんど全部でした。このフレームの形は、剛性上最も合理的と言っていい形状です。しかし、トップチューブが邪魔になって、スカートをはいている人などは、サドルをまたぐことがきわめて困難です。そこで、トップチューブを曲げたり下げたりしたママチャリが登場するのでしょう。
私より先輩が子どもの頃は子ども用自転車も女性用自転車もほとんど無かったものです・・・それでも、自転車に乗りたいときはダイヤモンドフレームの自転車に乗るしかなかったわけです。
しかし、体の小さな子どもにとって、サドルにまたがると足がペダルにとどきません。サドルに腰掛けるのをあきらめて体を前に持って行っても、トップチューブが邪魔になります。股下からの長さがトップチューブからペダルまでの距離にも足らないのです(汗)
それでも、わんぱく小僧はあきらめませんでした。トップチューブ下の三角の部分に足を突っ込んで、反対側のペダルに足をかけ自転車を斜めに傾けてバランスを取りながら乗るという、アクロバティックな乗り方を編み出したのです。これが、三角乗りといわけです。

10)鯉のぼりが泳いでいます。竿の先には矢車が回り、吹き流しもあります。都会では、ほとんど見られなくなってしまった風物です。
 この風習は、端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事だったようです。そこで、武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾ったと言うわけです。鯉のぼりののぼりは、滝登りの登りかと思っていましたが、幟からくるんですね。もっとも、掛詞でもあるのでしょう。ですから、ひらがなで書くのがふさわしい。
矢車は幟(のぼり)のなごりのようです。そして、これに対抗して、お金持ちの商家では吹き流しをあげたようです。
さらに、この吹き流しが、中国の龍門の故事にちなんで、鯉に変化したというわけです。
※龍門の故事
 後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたこと。
 ここから、鯉の滝登りが立身出世の象徴となったというわけ。
ところで、本来の端午の節句は旧暦の5月5日です。この時期は、実は梅雨の時期です。五月晴れは本来梅雨の合間の晴れのこと・・・。雨の時期に鯉のぼり?変ですね?
 ウィキペディアには、「雨の日」に揚げたとあります。(驚)
 まあ、鯉ですから雨が降れば元気になるのかな。
 現在では、新暦で5月5日までにしているので、晴れの日が多い時期。雨の日には、鯉のぼりを揚げないのが普通になってしまった。
 
ところで、2013年のSLやまぐち号の運行開始が5月3日です。ということで、鯉のぼりとSLやまぐち号は同時に存在します。

11)右下隅の自転車でやってきたおじいさんは手に何か持っているようですが?
 何でしょうか?
 
12)田(畠?)が、茶色に描かれているのは・・・田植え前に田起こしをした状態?

13)鯉のぼりの左側、おじいさんが見ているのは、苗代ではないかと思います。
 最近の苗代は育苗箱で苗を作るやり方が主流ですが、絵は昔ながらの手植え用の苗代です。
 ※苗代(なわしろ):稲の苗を育てる苗床です。日本の稲作では、苗を集中管理して、良質の苗を作りそれを植え直して(田植え)栽培するやり方が99%を占めています。

14)苗代の右の農家の庭にはニワトリが二羽これって、早口言葉?

15)庭にはムシロが広げられて、何か干しています。何でしょう?
 昭和初期まで 穀物や豆などのの乾燥は、筵(むしろ)による天日乾燥が主でした。そのムシロも農家の手作りで、ムシロを打つ(編む)ための道具がありました。今では、ブルーシートが主流になってしまいました。

16)男の人が手に持っているのは箕(み)だと思います。
 洋の東西を問わず、農作業に箕が使われています。日本では、伝統的に竹細工で作られた箕が主流でした。最近の箕はプラスチック製が増えましたが、竹製品も健在です。

17)題字の右の小屋の脇では、畑作業をしているようですが、詳細不明?


裏表紙
18)手動踏切の手前には踏み切番の人が立っています。
 列車が近づいてきますから、子どもや親子連れを止めています。
 昔の踏切は手動で,このような旗ふり要員が配置されていました。道の右にある細長い小屋は、詰め所だと思われます。
日本中から、手動踏切がほとんど無くなりました。特に、旗ふり要員の配置されている踏切は、とても珍しくなりました。

19)詰め所の右手前に白い何かが立っています。これはなにでしょう?

20)畦を子どもが3人走っています。真ん中の子は、網を持っているようです。
 小魚取りでしょうか、それとも虫取りでしょうか?
 それにしても、この時期の畦を走るなんて・・・見つかったら怒られそうです。

21)荷台に何かを積んで、自転車を押している人がいます。
22)右側の農家の庭に、黄色の袋状のものが6個並んでいます。これは何?

23)この農家の一部が飛び出していて、煙突があります。この部分は、炊事場でしょうか?それともお風呂か?

24)自転車を押している人の手前、大きなお屋敷です。
このお屋敷にも、鯉のぼりが上がっています。この家にも子どもが生まれたのでしょう。
25)男性が何か運んでいます。
26)茶色のシートのような物が干してあります。

27)大きな煙突が立っていて、煙突には何か文字が書かれています。
どうも、大きな屋敷は造り酒屋のようです。
安野さんの故郷である津和野には5軒の造り酒屋がありますが・・・・「高砂」と「鴎外」というお酒を造ってる財間酒造がモデルか??
煙突の文字が高砂とも鴎外とも読めないのが難です・・・ひょっとして、財間と書かれているのか!!


28)製造直売もされているようで、青いのれんのかかった店先には菰樽(こもだる)が積まれています。
※菰樽(こもだる):菰を巻いた酒樽。江戸時代に船で樽酒を送る際、船がゆれて樽と樽がぶつかって傷むのを防止するために、手近な菰(こも)を巻いて樽を保護したのが始まりだそうです。その後、菰に美麗な絵などを描き、祝宴での鏡抜きに使うことが多い。

29)店先には、円筒形のポストが立っています。このデザインのポストは、通称「丸ポスト」「丸型ポスト」と呼ばれ、1970年代までは一般的でしたが、今はほとんど見なくなりました。

30)酒蔵の横を、大八車を引いて(押して)荷物を運んでいます。
この形式の荷車は平安時代からあったようですが、江戸時代から昭和の初期まで、人力での輸送の主役だったようです。リヤカーの出現で、姿を消してゆきました。(ゴムタイヤのリヤカーに比べて、運搬能力に格段の差があったからです。)
今では、そのリヤカーも珍しくなってしまいました。

31)洗濯物が干された農家にはニワトリが遊び、つるべ式の井戸があります。

32)軒下で、男性が二人向き合っています。縁台将棋でしょうか?


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「前扉」
(1)鉄橋を蒸気機関車が走っています。
安野さんの解説では、津和野の中央にかかっている大橋と鉄橋を思い出して描いたものだと記しておられます。
現在も、山口線には観光用にSLやまぐち号が、走っていますが、蒸気機関車現役時代の山口線には、現在主力のC57形は使用されておらず、C58形やD51形、D60形などが使用されていたそうです。
となると、描かれた列車は、C58形、D51形、D60形と言うことになるのですが、いずれもシルエットが異なります。絵本のSLは、C56形がモデルのようです。

(2)河原で、子どもが二人鉄橋を渡る蒸気機関車を見ています。
 安野さんが子どもの頃、学校にはプールが無くて、この川で水に潜って遊んでおられたようです。
安野少年もこんな風に蒸気機関車をみあげたことでしょう。
 
(3)河原で、馬の体を洗っている人がいます。
(4)柳の木が描かれています。
今でも、津和野大橋のたもとには、柳の木があります。
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場面1 海辺 
(0)旅人は手漕ぎのボートで海辺にやってきました
中国編では、シルクロードを馬で西に去ってゆきましたが・・・その後どこをどう通って日本にやってきたのでしょう。
 白い砂浜に松林。どこの海岸でしょうか?山口のどこか?三陸の海?・:・・・どうも陸前高田の付近のようです。

(1)10人で地引き網をしています。女性や年寄りや子どもも混じって、力を合わせて頑張っています。

(2)カモメが3羽飛んでいます。
 地引き網が上がったら、捨てられる魚を狙っているのでしょうか

(3)魚の開きとタコが干されています。タコの干物は珍しいですが、全国各地にあるようです。

(4)網が干してあります。
 日本の伝統的な図案の一つに「網干(あぼし)」があります。漁網をつって干してあるさまを図案化したものです。旅の絵本の網は写生というよりデザインぽいので、安野さん網干を意識されたのではないでしょうか。

(5)船が4艘浜にあげられています。

(6)旅人は左上で船をこいでいます

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場面2 上陸
(0)旅人は 上陸しました。ここは、どこでしょう。海は広く開けて島影が見えません。太平洋沿岸でしょうか。津波に襲われる前の高田の松原のイメージのようです。

高田の松原は、日本百景にも数えられる白砂青松の浜で、陸前高田のシンボルでした。
江戸時代の1667年(寛文7年)に、高田の豪商によって防潮林としてつくられました。樹齢300年を超えるおよそ7万本もの松が続いていました。何度も、津波に襲われ、高田の町を護ってきましたが、2011年3.11の大津波は松原も根こそぎ奪ってしまいました。

(1)上陸した旅人は、早速海辺の人と話しています。
指さしているのは?「向こうから来たのか」なんていっているんですかね。
子どもが旅人の船の引き綱を持っています。

(2)ここでも魚とイカの干物が作られています。
化石燃料や電気を使わず,太陽光の恩恵を受けて作られる干物です。
(3)屋根にはカモメが1羽止まっています。小屋の中には作業をしている人もいます。
(4)ドラム缶が2個あります

(5)引き上げられた、船の脇にはカニがいます。カニと言えば、
「一握の砂」  石川啄木

我を愛する歌

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず

大海にむかひて一人
七八日(ななやうか)
泣きなむとすと家を出でにき

いたく錆(さ)びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに

ひと夜さに嵐来りて築きたる
この砂山は
何の墓ぞも

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

砂山の裾によこたはる流木に
あたり見まはし
物言ひてみる

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

しっとりと
なみだを吸へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

<以下省略>
全文は「青空文庫」で
読むことができます。
石川啄木の「一握の砂」が思い出されます。

啄木は1900年(明治33年)、盛岡中学3年の時、担任の富田小一郎先生に引率されて級友たちと三陸へ修学旅行に行っており、その際高田の松原に立ち寄っているのです。「一握の砂」は1910年(明治43年)に出版されていますので、この時作った詩というわけではありませんが、この時の経験が大きく生かされているのだろうと思われます。
 そんなわけで、高田の松原に、啄木の歌碑が建てられました。ところが、この歌碑は1960年(昭和35年)のチリ地震による津波で流されます。その後、歌碑は見つかりますが、別の場所へ移され、代わって金田一京助揮毫の歌碑が建設されましたが、これも3.11の津波で流されてしまいました。現在まで未発見です。


尚、歌碑に刻まれた詩は
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
でした。
この詩が、被災者とともに海の底にあると思うと、不思議な気がします。

(6)砂浜の反対方向に、4頭の馬を引いた男女がいます。
 旅人が乗ることになる,馬と言うことでしょうか?
だとすると、さっきの男性が指さしていたのは、馬を連れたこの人たちだったことになります。

(7)左ページ下 松林の中に亀をいじめている子どもたちと、浦島太郎がいます。
 
「浦島太郎(うらしまたろう)」
作詞作曲者不詳/文部省唱歌(二年)

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昔昔(むかしむかし)、浦島は
助けた亀(かめ)に連れられて、
龍宮城(りゅうぐうじょう)へ来て見れば、
絵にもかけない美しさ。

乙姫様(おとひめさま)の御馳走(ごちそう)に、
鯛(たい)や比目魚(ひらめ)の舞踊(まいおどり)、
ただ珍(めずら)しくおもしろく、
月日のたつのも夢の中(うち)。

遊(あそび)にあきて気がついて、
お暇乞(いとまごい)もそこそこに、
帰る途中(とちゅう)の楽しみは、
土産(みやげ)に貰(もら)った玉手箱(たまてばこ)。

帰って見れば、こは如何(いか)に、
元(もと)居た家も村も無く、
路(みち)に行きあう人々は、
顔も知らない者ばかり。

心細(こころぼそ)さに蓋(ふた)とれば、
あけて悔(くや)しき玉手箱、
中からぱっと白煙(しろけむり)、
たちまち太郎はお爺(じい)さん。
安野さんは、何故このシーンに浦島太郎を描かれたのか?
 深読みのし過ぎかも知れませんが、浦島太郎が竜宮城から帰ってくると、非常に長い時が経過しており、全く異なる世界を訪れたようになっています。
これは、津波によって、一本松を残して家も松林も跡形も無くなってしまった陸前高田の現状と、重なります。
故郷を離れて旅に出ていた人が、現在の状態の高田に戻ってきたときの、たまらない寂しさと重なるように思うのです。故郷を離れていなかった人にとっても、一本松を残して家も松林も無くなった高田の人達にとって、浦島太郎の感じた喪失感を共有しているようにも思います。
 ただ、浦島太郎と違って、高田の人達は、新たにコミュニティーを再構築すべく、今も努力されています。昔の高田には戻れないでしょうが、「復興」を目指しておられます。それは、高田に限らず大槌など被災地全般にいえることでしょう。
 
もう一つ深読み、
 浦島太郎と言えば「玉手箱」ですが
 開けてはならぬと釘を刺されていた玉手箱を浦島太郎は開けてしまいます。
 その結果、さらに悲しい結末になってしまうわけですが・・・・
 玉手箱を開けるという行為は・・・知的好奇心の抑制ができなかった・・・と考えると
 原子力発電という、今にして思うと禁断の技術に手を出してしまった、私たち日本人の「過ち」を暗に示している可能性もあります。あるいは、玉手箱の白煙が、水素爆発と放射性物質の放出も連想させます。
まあ、勝手な深読みですが。

ウィキペディアの浦島太郎
浦島太郎<福娘童話>・・・たくさんのパターンの一つです。

(8)藁葺き(茅葺き?)屋根の民家が3軒並んでます。
 真ん中の家の軒下には船が置いてあります。

(9)洗濯物が干してあります。
 安野さん、洗濯物を描くことが多いです。生活の象徴なのかな。

(10)ページ中央:大きな一本松が立っています。これは、陸前高田の松原の中で、津波の襲来に耐えて一本だけのこった「奇跡の一本松(希望の松)」です。

 高田のみならず被災地復興のシンボルとなった「奇跡の一本松」ですが、地震に伴う地盤沈下のため海水がしみこみ塩分過多となり、時間の経過と共に樹勢が衰えてきました。関係者の懸命の努力にもかかわらず、ついに枯れ死してしまいました。
 そこで、奇跡の一本松保存基金を募りました。2012年7月には一度切断して内部に防腐処理を施しつつ金属製の心棒を通し、元の場所に戻して保存しました。

(11)一本松の右の家は、軒の下が茶店になっているようです。
松原見物のお客さんが相手でしょうか
ちなみに、一本松の写真の背後に写っている建物は、陸前高田ユースホステルでした。多くの若者や旅人が集ったのです。この、茶屋はユースホステルの存在を暗示しているのでしょうか?

(12)天秤棒で水?を運ぶ男性と、両手に持って運ぶ女性がいます。
ここには、水道が来ていないようです。
水道の便利さを思います。水くみも水運びも大変な苦労です。そんな生活が、日本にもあった。
 自然災害の後、ライフラインが絶たれて、この便利さを失いました。空気のように当たり前にあって、私たちの生活を支えてくれるもののありがたさに、気づかされました。
ただ、今の便利さのために捨てた(無くした)事の何と大きいことかとも思います。

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場面3 レンゲ畑
(0)旅人は、レンゲ畑の広がる郷にやってきました。時は春ですね。
そしてここには、合掌造りの家が並んでいます。
世界遺産に指定された、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」であろうと思います。なかでも、富山県南砺市(旧平村) 越中五箇山 相倉(あいくら)合掌集落がモデルになっていると思われます。
 これだけの集落が残されたのは、交通の便が悪かったことも理由の一つ。集落の歴史の中でも、塞翁が馬はあるようです。
合掌造り: 「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけられています。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されているます。
合掌造りの屋根はおよそ45度から60度で、後期になるほど急傾斜です。この傾斜は、豪雪の中で雪下ろしをしなくても良いように、雪が滑り落ちやすくした合理的なものです。
また、垂直に立つ柱ではなくこの三角形の構造で支えられているため内部は広々とした空間が作られています。また、原則藁縄で縛って釘を使っていないことが、雪や風に対してしなやに耐える力を生み出しているようです。

ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、その著書 「日本建築の基礎」(於華族会館、1935年10月)の中で
『これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である。』
と記しているそうです。

(1)左下 旅人が馬を手に入れています。
 この馬は、前のシーンで引かれていた4頭の内の2頭でしょう。そして、話している男女も前のシーンの男女でしょう。
岩手と富山では、はなれすぎているようにも思いますが、これくらいの距離をワープするくらい、安野さんの力ならなんてことない・・

(2)合掌造りの家では、屋根の葺き替えがされています。ご近所さんが出てきて、協力しています。
 屋根の上に7人が上がってます。急傾斜で大きな屋根だから大変です。ひとり、てっぺんで遠くを見ています。レンゲ畑の様子を見ているのでしょう。

 合掌造りは保全のために、大規模な補修や屋根の葺き替えを20年〜40年に一度行う必要があります。屋根の葺き替えは、雨等のことを考えると1日でやり終えなければなりません。これには、たくさんの人手が必要になります。そのために近隣の住民で「組(くみ):互助組織」を作って、「結(ゆい)」を行います。
(大きな屋根でどうしても1日で終えることが出来ない場合、作業量に応じて分割しての葺き替えになります)
屋根材に使う茅(かや=ススキ)は、集落で茅場を維持し、毎年刈り取って乾燥保管しておいてこのような作業の時に持ち寄って使うようです。色々な意味で、地域が助け合うことが前提になっています。
現在の都会のような他者からの干渉が少ない生活に比べて、関わり合い助け合う文化があったのです。これも、現代社会にその良い部分をよみがえらせたいことの一つです。

(3)中央に2棟ならんだ住宅は、相倉集落の、右の写真の家がモデルでは無いかと?
 軒下には、はしごが吊されています。葺き替え作業にも使われることでしょう

(4)山羊が3頭飼われています。女の子とおばあちゃん(お母さん?)が手をつないで見ています。
 昔はヤギを飼育している農家がよくありました。主にミルクを得るために飼育されていたものです。ウシよりも飼育が簡単で、ウシのミルクよりも栄養価が高いといいます。そのため、今でもヤギを飼育しておられる家もありますが、随分減ってしまいました。
 山羊と女の子といえば、田島征三さんの「やぎのしずか」のシリーズが思い出されます。

(5)井戸があります。珍しくはねつるべが使われています。てこの原理を利用したくみ上げ方式です。
※はねつるべ: 柱の上に横木を渡し、その一端に石を、他端に釣瓶を取り付けて、石の重みで釣瓶をはね上げ、水をくむ道具です。
安野さんは、これも電力に頼らない生活の在り方として、描かれているのだと思います。ところで・・・

『荘子』「外篇・天地第十二の7番目の説話には、便利さを追求することは、大切なことを失ってしまうことにつながる。その便利さをもたらす道具のたとえとして、はねつるべが出てきます。なかなか、興味深いです。
孔子の弟子の子貢が、大変な苦労をしている老人に、大変便利な道具があるから使ってはどうかとはねつるべを紹介します。
ところが、その老人は、師匠の言葉として以下の考えを紹介します。
「仕掛道具が作られると必ずたくらみごとが行われるようになる。たくらみごとが行われるようになると必ず知巧を弄するたくらみ心が起ってくる。たくらみ心が胸中に生じると人間の純粋潔白な本来の心は害(そこな)われ、本来の純粋潔白さが害われると霊妙な生の営みはかき乱されて不安定となる。霊妙な生のいとなみが不安定になれば、根源的な真理はもはや彼の生活を支えなくなってしまうのだ」このように教えられているので、はねつるべのことは知っているけれど、利用しないのだというのです。
 ふりかえって、安野さんが、旅の絵本の中ではねつるべを出してくるのは、水道などの便利な生活の対極としてだと思います。ですから、はねつるべを通して安野さんが訴えたかったことは、荘子のこの考えに通じるものではないかと思います。

(6)右上 杖をついたおばあさんが、竹藪に向かって歩いています。
竹藪に行くおばあさんと言えば・・・舌切り雀にでてくる、欲張りばあさん
ちょっと、深読みのし過ぎかも知れませんが、欲張りの戒めは、協働で助け合って生きている「結」の対極の存在としてここに描かれたのかも知れません。また、自然との折り合いの付け方についても考えることのできるお話です。

したきりすずめについての考察を見ることができます。
えほんおじさんのぶろぐ
http://www.kibiehon.net/ehon/BC45/SSuzume/ehon.php

お話は、青空文庫で 楠山正雄の『舌切りすずめ と 福娘童話集 「舌切りすずめ で読むことができます。

(7)森にはシカが2頭います。
 (8)の猟師の獲物として描かれているのかも
 あるいは、「もののけ姫の」シシガミ様??

(8)森の中にいるイノシシを狙う、犬を連れた2人の猟師がいます。
猟師の格好が、西洋ぽいのですが・・・スポーツハンティングでしょうか?
となると、
宮沢賢治の児童文学『注文の多い料理店』が思い出されます。
これも、お金が全ての欲深い人間、自然との折り合いを忘れた都会人のお話でもあります。

青空文庫で『注文の多い料理店』を読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html
ウィキペディアの『注文の多い料理店』

もう一つ別の見方
「ものけ姫」でシシ神や猪神である乙事主(おっことぬし) などの存在に対する、対立軸として存在する エボシ御前に率いられる石火矢衆
妄想気味ですが、そんなに外していないのでは・・・・

(9)田んぼにはレンゲ(ゲンゲ)の花が咲き誇っています。
 最近では、見ることの少なくなった昔懐かしい、田園風景です。

レンゲは、豆科の植物ですから、根には空中チッソを固定する根粒菌がついていて共生しているのです。このため、チッソを充分蓄えたレンゲを田んぼに鋤こむと、自然のチッソ肥料になり、稲の収量を格段に伸ばすことができます。また、養蜂家に取っては良質の蜜源ですし、牛の飼料にもなりました。ですから、日本中でレンゲ(ゲンゲ)の栽培が奨励されていたのです。
こんな、いい話ばかりのレンゲ畑ですが、1980年代になると、レンゲ畑は減少して行きます。1990年代になると、珍しい存在になってしまいました。化学肥料の利用が推進されたことや機械化によって役牛としての牛の飼育も減りますし、田植えも田植機になってゆきました。田植機での田植えをでは、レンゲの鋤こみが不十分だと、レンゲの茎等が邪魔をしてうまく苗がつかないのです。鋤こむ作業を増やさなければならないそうです。
機械や化学肥料の利用という、便利さの追求がレンゲ畑の激減につながったわけです。

しかし、無農薬有機農法の価値が見直されるようになって、「レンゲ農法」が再度見直されていまます。

(10)レンゲの花以外にピンクの花をつけている木があります。桜の木でしょうか?
 次の場面が花見なので、それの前ぶりなのか、それにしては描き方が異なるようにも思えます。桃の木か

(11)レンゲが植えてある田んぼは、石垣を積んで棚田のようです。
でも、その石垣は緑っぽく描かれています。石垣の間からたくさん草が生えてきているようです。

(12)シカと猟師の間に小屋のようなものが見えます。これはなに?
 料理店にしては、粗末ですが?

(13)イノシシの手前に並べられている木は何?
木柵?でしょうか、椎茸の原木でしょうか?どうも、椎茸の原木のように見えます。もう、椎茸が出てきているようです。

(14)池には蓮が植えてあるようです。
 蓮から飛び込んでいるのはカエル?でしょうか??
何かの物語等に関係するのでしょうか??

(15)左ページの草原の中に、小鳥が描かれています
これは何??
舌切り雀のスズメではないかと考えます。ここに、ノリを食べしまうスズメを配置することで、(6)のおばあさんを舌切り雀のおばあさんにしているのではないかと思います。


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