「モヤさん」の人と自然の出会い旅]W

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人と自然の出会い旅60

森の中のホタル

 ホタルを見ることができるのは、自然の残された清流。これは、常識・・・のはずです。ところが、近くに川など無い森の中でホタルを見ることがあります。初めて、そんなホタルを見たのは、1989年全国レクリエーション研究大会で、ネイチャーゲームの体験に訪れた福岡の今宿野外活動センターでのことでした。〈夜は友だち〉というネイチャーゲームをしたときです。一人一人森の中に置かれて、夜の森と向かい合います。一緒に歩いていた仲間が歩き去って静けさがあたりをおおい、目が暗闇に慣れてきます。
 静けさの中で、森と語り始めます、自分自身と語り始めます。目も心も森にとけこむ頃、森の中に静かに光るものが有ることに気づきます。静かな蛍火です。ただ、動きません。ホタルの幼虫だろうと思いました。ホタルは幼虫も光ると聞いていたからです。でも考えてみれば、ゲンジボタルもヘイケボタルも幼虫は水の中にいるのです。サナギになるときに土手にあがって穴を掘って、土繭を作って潜り込みます。その時、陸上でも光ることがあるようですが・・・。そもそもそんな近くに水辺はなかったのです。

 2度目に、森の中で蛍光を見たのは、香川県の尾の瀬山。1890年ののことだったと思います。香川の満濃池でネイチャーゲームの初級指導員(当時:現在リーダー)の養成講座を受けた後、受講者を中心に指導の場を作ろうと、企画された研修会でのことです。指導の前日皆で泊まり込んで翌日の作戦を練った後、私は夜の森に出かけました。夜目に自信の有る私は、無灯火で歩くのが好きです。自分の感性がどんどんとぎすまされてゆくのを感じるからです。曇りで月も星も無い夜でしたが、林道を歩く間は、難なく歩くことができます。山道に入り、さらに樹林帯に入って行くと、それまで経験したことの無い暗さです。いくら、暗順応しても見えません。残された感覚は足の裏の感覚です。山道の微妙な変化を感じながらゆっくりと前に進みます。尾の瀬神社にやって来て、空が開けてほっとしている時、暗闇の中にほのかな蛍火を見たのです。かすかな蛍光を頼りに近づいてゆきます。それは土の上で光っていました。それがどんな姿なのかまったく見えません。土ごとすくい取って、小屋まで持ち帰りました。灯りで確かめてみると、ホタルの幼虫でした。

 この時も、近くに水辺は有りませんでした。これら、陸生のホタルの幼虫だったのです。ホタルの幼虫は肉食で、基本的に巻き貝です。ゲンジボタルやヘイケボタルの幼虫は、カワニナなどの淡水の巻き貝を食べます。陸生のホタルの幼虫は陸棲の巻き貝(カタツムリなど)を食べているのです。そして、世界中のホタルは約2000種も有るそうです。そのほとんど陸生のホタルなのです。その中の水生のものは5種類だけ。日本でも、ホタルの種類は46種、そのうち水生のホタルは、ゲンジボタルやヘイケボタルなど4種類だけ。日本では当たり前のゲンジやヘイケは世界的にも例外的な水生のホタルなのです。日本の陸生のホタルは、光が淡い上に、森の中にいるので目立たず、ゲンジやヘイケが強力な光なので、一般には知られていないのです。

陸生のホタル幼虫の放つ光を、見るためには、目が暗さに慣れる必要があります。さらに経験からすると、人が歩いているとその震動のためか幼虫の発光が抑制されるように思えます。その意味で、ネイチャーゲームの〈夜は友だち〉は、最適な活動です。その後、ネイチャーゲームをするなかで、あちこちの森で、陸生のホタルの幼虫を見ることができました。
 実はまだ、陸生ホタルの群舞を見たことがありません。広島県内の有るキャンプ場の奥で、群舞を見たことがあると言うことなので、是非一度見てみたいと思っています。
2008.9.15
ホタルのことについては、自然の面白クイズの「ホタルさんの点滅人生」をご覧ください。

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人と自然の出会い旅61
木は育つ場所を選べないから

 日本のあちこち、色々な木を見てきました。これは桜、これは楠と分類して、その木のことを分かった気持ちになることがあります。しかし、ヒトが同じ人類であっても一人一人異なるように、同種の木も一本一本が異なるのです。ヒトの場合、一卵性双生児のように遺伝子情報が同じなら、性格はともかく外見はそっくりになります。ところが、木の場合は、ソメイヨシノ(種子ではなく接ぎ木で増やすので、クローンです)のように遺伝子的には全く同じであるにも関わらず、枝ぶり・根の張り方・幹の様子・・・・それぞれが個性的な樹形(外見)をしているのです。
 〈わたしの木〉というネイチャーゲームがあります。目かくした状態で木を紹介してもらって、後で目かくしをとって再会するのです。ゲームとしては「木あて」ゲームの形をとりますが、探すという行為を経て木と心をかよわせ特別の友だちになるための活動です。活動のフィールドは、できるだけ多様な樹種がある場所を選定するようにしています。しかし、同じ樹種が多い場合や同じ時期に植えられて樹齢まで同じ木が並んでいるところで実施しなければならないときがあります。こんなにも同じような木ばかりで、本当にあてることができるのだろうかと参加者は不安になります。ところが・・・、実際にやってみると、一本一歩が見事に違う存在である事を実感することになるのです。

 先日、島根県の三瓶山で行った養成講座でのことです。私が相手の方に紹介した木は、不思議な樹形をしていました。岩を枕にするように横たわった幹から上に向かって太い枝が4本も伸びています。一方で根の方も岩の隙間に潜り込んでいます。何故まあこんないびつな形に育ったのでしょうか?まあ、そこに味があると思ったのですが・・・不思議な樹形です。
 私の指導を見ているスタッフの中に、樹医さんがいました。紹介が終わって、木を見つめ触りながら色々と話しているときに、私たちに近づいてきて、その木を愛おしそうに触りながら「木は育つ場所を選べないから」とおっしゃったのです。
 木は、たまたま偶然種がとび、根を下ろしたところに適応する。適応できなければ枯れるだけ。それが石の上であれば根を伸ばして土を求める。大きな木に上空が覆われていれば、光を求めてブランクの方へ乗り出すように生長してゆく。斜めに生長してバランスが崩れそうになれば、支えるように枝の付け根を固くする(木は場所によって固さが違うのです)。根は、大地をつかむべく伸びてゆく。嵐で枝が折れれば、傷からばい菌が入らないように、傷口を覆うように形成層肥大させてゆく。根を下ろしたところが斜面なら、漫然と生長すれば、いずれバランスを壊して倒れてしまいます。すると、杉や松などの針葉樹は、紗斜面の下側を生長させ、下からつっかい棒をするように生長します。一方広葉樹の場合は、斜面の上側を生長させて上から引き上げるようにしてバランスをとるのです。
 樹形を見ながら、何故このように生長することになったのかを考えると、その木が生長の過程で克服してきた困難が分かってくるのです。木には脳がありませんから、人間と同じような「意思」を持っているわけではないのですが、それなりの意思を持って、自らを環境に適応させて生きている事に気づかされます。それは、自らは育つ場所を選べないだけに、ある種、潔い生き方と感じます。

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人と自然の出会い旅62
巨木との出逢い

 福岡でのフォローアップセミナーの後、英彦山に行きました。修験道の山は随所に魅惑的なポイントにあふれていました。その一つが、鬼杉と名付けられた推定樹齢1200年の古木です。小沢の脇にそれはそれは堂々と立っています。英彦山は標高もあまり高くなく、道もしっかり整備されているので登る人もたくさんいますが、メインのコースからかなり離れてしまう鬼杉にやってくる人は限られていて、静かな空間に圧倒的な存在感で立っているのです。
 そこにやってくる登山者は、それなりの思いをしてたどり着いたのに・・・しばらく感心して見ていると去って行きます。(その間5〜20分間)もったいないなあ・・・と思った私は。〈狩人の訓練〉というネイチャーゲームをすることにしました。獲物を待つ狩人のイメージで座って、一切の動きを止めて周囲を感じ続けるのです。本来40分〜1時間くらい続ける活動のはずですが、講習会等では時間の関係と、参加者の集中の持続力を考えて10分〜20分で切り上げてしまいます。今回は時間がとれるので、鬼杉に向かって、集中を妨げられないように他の登山者から見えにくい場所を選んで・・・、本当に1時間座ってみました。座りながら〈ネイチャーチューニング〉というネイチャーゲームの要素も取入れてみました。鬼杉の生命力を感じて、それに同調し私の中にその生命力を感じます。それはそれは、豊かな時間でした。今でも、目を閉じると堂々とそびえ立つ鬼杉の姿と生命力をよみがえらせることができます。

 振り返って見ると、私の人生の中で多くの巨木との出逢いがあり、それぞれに大切なものを与えてくれています。屋久島では、樹齢1000年に満たない杉は・・・小杉といい、1000年を超したものだけを屋久杉といいます。通常、杉の寿命はせいぜい300〜500年、屋久島では花崗岩質の厳しい土壌が生長を遅くし、長寿の屋久杉を生み出しています。(鬼杉は異なる自然条件で1200年という長寿を維持しているわけで、やはり独特のものがあると思います。)屋久杉といえば、縄文杉が格別に有名です。推定樹齢7000年を超すとの説もあって、その存在感は圧倒的でした。(合体木ではないかとの説もあり、その場合でも3000年から4000年の推定樹齢です。)雨の中一人で静かに見あげていました。屋久島観光の目玉である縄文杉は往復十数時間の山歩きを要求されるにもかかわらず、連日多数の登山者が訪れます。従って、通常、静かな対面とはいかないようなのですが、私の場合は、宮之浦岳を縦走して縄文杉に行ったので、着いたのは午後のかなり遅い時間。縄文杉ツアーの人たちは、全て下山してしまっていて、一対一の対面がかなったわけです。木の保護のため観察台から見ることになりますが、巨大な縄文杉の枝振りにしっかりと抱かれるように作られている観察台ですから、そこに一人立つ私も縄文杉に抱かれている様に思えます。縄文杉の枝からの雨だれが見あげている私の顔に降りかかり、不思議な一体感を与えてくれたものです。
 縄文杉を超える巨木といえば、カルフォルニアのヨセミテ公園で出会ったジャイアントセコイアの巨木たちとの出逢いがあります。これも、根の浅いジャイアントセコイアを保護するために、基本的に木の根本に立つことはできません。でも、観光エリアを離れてほとんど人のこないところでは、木の根本に立つことができます。そうした条件の下で、ジャイアントセコイアの根元に一晩寝るという体験をすることができました。(ヨセミテの自然と人から学んだこと」参照
 私たちの寿命の何十倍もの年月を生きている生命と、共にある体験は、本当に貴重です。せっかくの出逢い、巨木が生きてきた時間の長さから比べると、どんなにがんばっても一瞬のことでしかありませんが、パットみて、「感動」してハイさようならという出逢い方は、とてももったいないと思っています。
2009.5.7
※ここに、載せている文章を、中国の外国語大学の日本語の教科書に使って頂きました。光栄なことです。

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人と自然の出会い旅63
アンパンマンのエキス
 最近私が口走ること「趣味の献血のためですから」・・・冗談ともとれる言い回しですが、これ本気なんです。私の献血初体験は18歳の時でした。この年、大学に入ったばかりで、父親が静脈瘤が破裂して大量に吐血して危篤になりました。叔父からの電話で取るものもとりあえず帰郷しました。危篤のはずの父は病院のベットにいて、しっかりとした意識で「何にしに帰ってきたんならぁ」と言います。実は、会社の同僚の人たちから大量に輸血を受けて意識を取り戻し、元気になっていたのでした。翌日、父は亡くなりました。18歳の私は訳もわからず喪主の立場にされて、訳もわからないまま葬儀が終わって、大学に帰って行きました。
 たくさんの人からの輸血のおかげで、最後に父親と話すことができました。いただいた膨大な血液をどのように返して行けばいいのだろうと、考えていました。そんなとき、献血車に出会ったのです。もらった人に直接返すことはできないけれど、とりあえず誰かに私の血が使ってもらえればと、初めての献血をしました。それから機会があれば、ポツポツと献血を重ねてきました。
 ずっと後に、癌で亡くなった母も手術に際してたくさんの輸血を受けました。両親が頂いた大量の血液ですが、献血を重ねて世の中に返すことができたかなと思います。その後は、恩返しのつもりで献血をしてきました。何十年も献血を続けていると色んなことがあります。「血液型が違うかも知れないので精密検査を受けてください」「血圧が低いので今日は献血をして頂けません」「心電図に異常があるので精密検査を受けてもらわないと献血して頂けません」・・・その度に、精密検査を受けたり、体調を整えたりして献血を続けてきました。最近は、「ALT(※アラニンアミノトランスフェラーゼ・・・肝臓の酵素で、肝臓が壊れたときに出るので肝炎など前兆を把握できます)の数値が60を超えると献血できません」と言われてしまいました。私は元気だし、お酒もほとんど飲まないどこも具合が悪くないし、何かの間違いだろうと期間をおいて出直しても数値が改善しません。何度行っても駄目で、とうとう病院に行くと「内臓脂肪のつきすぎです、肝臓がフォアグラ状態です。」とあっさり言われてしまいました。どうすればいいのですかと問うと「内臓脂肪はダイエットすればすぐに落ちますよ。」との答え。すでに趣味と化してしまった私の献血です。趣味のためなら、大抵の困難は克服できるものです。その日から、ダイエットが始まりました。一時は120を超えていたALTの値を、1ヶ月半で60以下にまで落とすことができて、見事献血復活です。その後も、50以下、40以下と順調に数値を下げて、立派な健康体回復です。ついでにメタボ一歩手前まで行っていた体型もクリアー。しまい込んでいたズボンもはけるようになりました。いやぁー趣味の世界は強いです。皆さんも献血をして、健康体を保ちましょう。

 献血をしていると、色んな事に出会います。今日も、献血のことを調べていたら、4歳で小児癌で亡くなった崚介(りょうすけ)君の話と出会いました。抗ガン剤の副作用は、造血作用を奪ってしまいます。気力と体力を奪われた崚介君に元気を与えてくれるのは、輸血。崚介君にとって輸血は、体の中のバイ菌を大好きなアンパンマンがやっつけてくれるイメージです。だから、輸血は『アンパンマンのエキスだっ!』です。余命1ヶ月と宣告され、10ヶ月間の闘病生活で50回もの輸血を受けて癌と闘った崚介君ですが、ついに生命の火は消えてしまいます。それでも、たくさんの輸血が、崚介君と彼の家族の闘いを支え、夢をつなぎ、輝かしい最後の日々を作ることができたのだと思います。誰もが、『アンパンマンのエキス』を提供してアンパンマンになることができるのです。私も、趣味の献血を続けて、年齢制限の70歳になるまでアンパンマンであり続けて、生涯で300回を超える献血を達成したいと思っています。そのためにも、60歳を過ぎても献血が続けられるくらいの健康体を維持しなくてはと思っています。


崚介(りょうすけ)君のお母さんが自身のブログに「ありがとう!っていっぱい言わせて。」という文章を書いておられます。そこから引用します。
http://blogs.yahoo.co.jp/kiyomisan325/25320865.html

【アンパンマンのエキス】献血ルーム・落書き帳に。

    私の4歳の長男は小児ガンです。
  10ヶ月の闘病生活の末、亡くなってしまいました。
  その間、皆様の献血のおかげで
  安心して治療を受ける事ができました。
  本当にありがとうございます。
  あの子は輸血されると元気になる事を知っていて
  『アンパンマンのエキスだ〜』と言っていました。

    一時は毎日のように輸血させて頂きました。 
  輸血が必要な時 『今 足りないので待っていてください』
  と言われ 祈るような想いで待っていた事もありました。
  届いたときは、本当に嬉しかったです。

  献血して頂きました皆様になんてお礼を言ったらいいのか。
  ありがとう! ありがとう!
  医療スタッフと皆様のおかげで生きながらえる事ができて
  どんなに《ありがとう》と言っても足りません。

    今でも病院では、多くの子供たちが輸血を待ってます。
  これからも献血をお願いします。 もちろん私も来ます。
  子供たちの笑顔が消えませんようにと祈ってます。

《中略》

『今 足りないので・・』の時の話をさせてください。当時は一刻を争う時でした。肩で息をする程の。通常こちらの病院は、朝 輸血のGoサインが出ると昼すぎには始まります。輸血をしなければ、即 何が起こっても不思議じゃない。・・・でも、なかった。
《早く!早くなんとか!!》
ずっと苦しがっている長男の手を握りしめながら祈るしかできないこの歯がゆさ。そして深夜、丸一日経って届けられた 命をつなぐ血!それは県外からヘリコプターで届けられたものでした。また、一回の輸血で必要とされるのは約8人分らしく(血小板)これらを含め輸血を50回以上もさせて頂いてました。

本当に、本当に心から感謝いたします!



   「ねぇ、今 なにしてる?」
          今日も お空にむかって。
                        きよみ

 崚介君の話はTSS(テレビ新広島)が番組を作っていて、ネット上で見ることがでるように公開しています。年のせいか涙もろくなっている私は、もらい泣きをしてしまいました。よろしかったらどうぞ。(約10分です)
 http://www.tss-tv.co.jp/news/anpan/
2009.5.13

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