人と自然の出会い旅64 オッ!ヘビがいる。あれ!? ネイチャーゲームの中に〈カモフラージュ〉という活動があります。自然の中に人工物をセットして、見つけて楽しむゲームです。派手な物や大きな物は見つけやすいのですが、小さかったり周囲の自然に色や形が似ている物は見落としてしまいます。見えているのに気がつかない。この悔しさと、なにげなく見過ごしていた物に気づけた時の喜びもひとしおです。このことが、参加者の集中力を高めます。 一通り終わると、なぜ見つけやすかったのか、見つけにくかったのかの議論になります。参加者の人たち自身によって、カモフラージュ(カムフラージュ)の 仕組みが解き明かされてい行きます。自然界の生き物たちも、天敵から身を隠すためだったり、獲物に気づかれないために自然にとけ込んでいたり、他の物に擬態していたりします。そんな話をひとしきりした後で、現実のフィールドで、隠れいている虫などを探すと、新たな発見があるのです。 長崎県にある国立諫早青少年自然の家での、ネイチャーゲームリーダーの養成講座でのことです。〈カモフラージュ〉を終えた後、自然の中のいろいろな物を発見する〈フィールドビンゴ〉という活動をしていました。参加者がフィールドに散っていった後、私もビンゴカードを持って歩いていると・・・、木の枝にヘビの子どもがいるのを見つけました。オオ!です。どうもマムシの子どものようです!!。しかし、動きません。よく見ると頭部から5〜6cmのところで終わっています。鳥か何かに食いちぎられたのでしょうか。不気味ですが、かまれる心配は無いので、安心して観察を続けます・・・・。 あれ?近くにもう一匹、同じような長さの生首があります。こんな偶然てあるのでしょうか? そいつは横から見るような形になるのですが、首先だけのくせに、鎌首をもたげて攻撃態勢に在るのです。・・・なんだか変です。枝に接する部分にポツポツがあります。ハッと気がつきました。このぽつぽつは脚で、イモムシだ!蛾か蝶の幼虫だ!あまりにも精巧な擬態だったので、かなりの長時間そのことに気づくことができなかったのです。 参加者の人にも、見てもらって自然の造形の妙に感嘆しました。以前に見たシャチホコガも精緻な擬態でしたが、こいつもなかなかのもです。動いていませんでしたが、枝の先でさわると、いやがって動きます。その動き方も、ヘビの動きに似ています。それにしても、胴体やしっぽの無いヘビの頭部付近だけが動く様子は、不気味です。半端ではないレベルの似方で、迫真の擬態ですから、かなりの効果が期待できるでしょう。 調べてみると、スズメガの一種で、ビロードスズメ (Rhagastis mongoliana )という蛾の、幼虫でした。成体は、褐色で目立たない蛾です。同じビロードスズメの幼虫でもヘビに似ていないものもあるようなのですが・・・。褐色型とされるこのパターンの幼虫は、色の識別できる鳥にとっては、あまり近づきたくないでしょうから、生存率が高くなることでしょう。 自然て、本当に面白い。 2009.10.6
後日談
2010年夏 静岡での研修会で、県立森林公園の中を移動していた時のこと。後から来る参加者から「ヘビのような幼虫がいる」との声がかかります。「オッ!」と思いながら戻ってゆくと。マムシグサ(サトイモ科のテンナンショウ属の仲間で、その茎の縞模様がマムシの模様なのです)があります。その茎(厳密には葉の軸の部分が筒状に巻いていて本当の茎を取り囲んでいるので、偽茎というのだそうですが)と葉に1匹ずつ例の幼虫がいました。今回は、鎌首をもたげていなませんが、やはりマムシの子ども風の擬態です。それにしてもマムシグサをマムシに擬態した蛾の幼虫が食べているとは、何とも面白い光景です。 今回は、最初からヘビでないことは分かっていますから、頭の部分(幼虫にしてみればおしりの部分)をさわってみます。すると、グッと鎌首をもたげてきます。本当の頭部はピクリとも動かさないのは、擬態に徹しているのでしょうか?生き物の生態は、知れば知るほど、見れば見るほど興味深いものですね。 2010.8.26 |
人と自然の出会い旅65 静寂の音(シーン)に耳を澄ます ネイチャーゲームの〈音いくつ〉や〈サウンドマップ〉などの活動を通じて耳を澄ましていますと、普段は聞こえない音が聞こえてきます。耳を通じてのたくさんの情報のうち、恒常的にしている音や必要としないと思われる音は脳が無視してしまっているようです。森の中でもどこでも・・・・耳を澄ますと大きな音や目立つ音の陰にひっそりと隠れていた音が姿をあらわしてきます。自然の中には完全な静寂なんて存在しないのではないかと思うほどです。これまでに一度だけ、完全ではないもののとびきりの静けさに出会ったことがあります。 それは、佐賀にある北山少年自然の家でおこなったネイチャーゲームリーダー養成講座でのことでした。冬の早朝・・・日の出前に施設を出て、丘の上に行きました。静けさの中の微妙な音を聞こうと〈音いくつ〉をしました。目を閉じて参加者一人ひとりが音を数え始めます。通常どんなに静かな場所でも、時間と共に繊細な音が聞こえてくるようになるものなのですが・・・。 聞こえてこないのです。日の出前で、小鳥のさえずりも羽音も聞こえません。寒くて虫も活動していません。全くの無風で風のそよぎも草の動きも遠くの町の音も・・・見事に何もないのです。かろうじて参加者が身じろぎする音と、数百メートル先の谷を流れる、幅数十cmほどの溝を流れる水が高さ30cmほどの段差を落ちている音が遠くかすかに聞こえてくるだけです。それこそ、シーンという音が聞こえてきそうな場面でした。あまりの静けさに、その後行うことにしていた音の地図を描く〈サウンドマップ〉の実施を後に回したほどです。後にも先にも静けさが理由でサウンドマップをあきらめたのはこの時だけです。この時ほど、音の無い空間を仲間と共に共有したことは有りません。 日本のマンガの中ではよく静けさを表す擬音として「シーン」が描きこまれます。マンガの中に「シーン」を最初に描き込んだのは、手塚治虫だそうです。静けさを表す表現としてのシーンあるいは「しんとして(深として/森として)」という表現自体はそれ以前からあったのですが、マンガの画面に書き込んで擬音にしてしまったのが手塚さんなのです。音のない状態の擬音というのも不思議な感性ですね。 ところで、私には、このシーンの音が聞こえます。ネイチャーゲームの研修会で「シーンという音を聞いたことがありますか?」とたずねて見ました。すると参加者の手がかなり挙がります。とはいえ、全員ではないのです。聞いたことがない人(意識したことの無い人)もいるのです。私には耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきます。それは、シーーーーーンという音で、kiiiiinとも聞こえますし、piiiiiinともchiiiiiiiiとも、表現が難しいですね。とにかく抑揚も高低もなく頭の中で響きます。この音、どんな高性能のマイクでも録音することができないので、幻聴か何かのように思っている人もいます。ところが、この音はだれでも無音室にいると聞こえてくるのだそうです。 この音は、外から空気を伝わって聞こえてくる音ではないようです。頭の中の音を聞いているようです。その音の主成分は耳そのものが出す音です。細かく言うと耳の中にある蝸牛(うずまき管)の中にある外有毛細胞が発生源です。この細胞は、音を拾うと伸縮します。この動きがあたかも踊っているように見えるので、「ダンス細胞」と呼んでいます。この動きによってアンプのように微細な音を拡大し、大きすぎる音は押さえ込むという働きをしています。この機能のために例えば1万ヘルツの音を聞くときには1秒間に1万回伸縮するわけで・・・細胞がぶるぶるふるえています。動いていると言うことは・・・そうです!音を出しているのです。この音のことを耳音響放射というのだそうです。この音は、耳の中に微小の集音マイクを入れて録音可能です。これを、聴覚器官が直接感じているのです。この音はまあ常にあるのですから、他の音を聞くのには邪魔なわけです。そこで通常は脳が聞こえないことにしている音なのだと思います。ところが、無音室では他の音が全くしないので、脳が微細な音を探したあげく、いつもは無いことにしているこの音を意識し始めるというわけです。シーンに限らず常に存在する音は、日常生活には邪魔なものとして意識から外されるようです。ただ、それらの音は外部マイクで録音できます。これに対して、シーンの音はどんな外部のマイクではどんな高精度でも録音できないのです。何しろ空気などを介せず耳が直接感じている音ですから。 ならば、無音室でなくても、聞く気になれば聞こえてくるはずです。研修会で手を挙げてくれた人たちも、そこそこの静けさの中で、シーーンの音を体験されていたようです。ところで、そもそも頭の中には常にある音なら、脳のフィルターをはずしてやれば、それなりに音がしているところでも、聞こえるはずです。実は、私自身はそれほどの静寂でなくてもその気になればシーーンの音を聞くことができます。話し声や他の音を聞きながら、シーーンの音を聞くことができます。これができるとかなり便利です。気持ちがざわついていて落ち着きがないときとか、集中しようと思うときには、電車の中でも雑踏の中でもシーーンの音に耳を澄まし、その音に集中すると雑念を払うことができるからです。ネイチャーゲームの指導とか気持ちを切り替える必要のある時には、色々な方法で集中を手に入れていますが、その一つとしてこのシーンの音に耳を澄ましています。 ただ、この方法に現在の所一つ欠点があります。私の場合、シーンの音が聞こえる状態にはすぐなれるのですが・・・一度聞こえ始めると今度はスイッチを切るのを意識的にできないのです。声を出したり動いたりして他の刺激を強めると自然に聞こえなくなっているのですが、今から聞かないという切り替えが自由にできないのです。このため、心理的にうるさい時があるのです。早くON・OFFを自由に切り替えることができるようになりたいと思っています。 静寂の音といえば・・・サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」という曲があります。この曲の一般的な解釈では、この音は「シーン」とは別物のようなのですが、これについてはまた別の機会に考えてみます。 「サウンド・オブ・サイレンス考」 2010.5.6 |
人と自然の出会い旅66 ウミウシさんとの出会い ウミウシという不思議な生き物がいることを知ったのは、大人の世界に空前の食玩ブームを巻き起こしたあの「チョコエッグ」でした。ネイチャーゲーム仲間に教えられて、その精巧さと卵から出てくる小さな世界に魅せられて、・・・箱ごと購入してしまう大人買いの暴挙をするようになってしまいます。その第3弾でアオウミウシが登場しました。鮮やかすぎる色づかいに、これはあまりにも不自然だと感じました。もっと自然な色づかいにしてくれなければ気持ちが逃げてしまう・・・失敗作だなと思ったモノです。 ところが、本物はチョコエッグ以上に鮮やかだったのです。本物を見たのは2000年のことです。この年、千葉の大房で第10回の全国ネイチャーゲーム研究大会がりました。「やっぱ海だっぺ」を合い言葉に、海にこだわった全国研でした。ゲストにケビン・ショートさんが招かれていて、講演も磯での観察も大いに盛り上がり、楽しみました。この大会が終わった後、海に向かった気持ちのまま仲間と葛西臨海水族園を訪れました。すると渚を再現した展示スペースがあって、そこにいたのです。本物のアオウミウシが。ガラスを通さずに、生のその姿を見ました。すでに、写真では見ていましたが・・・。写真で見る以上に鮮やかな色づかいです。いかにも「不自然」な蛍光色の青に黄色の縁取り。大きさは、チョコエッグが実物大であることを確認しましたが、チョコエッグの色では地味すぎる位でした。自然界の生き物が、こんな色をすることもあるのだと、感心しまた。それにしても、ウミウシは、貝殻が退化し手しまった巻き貝の仲間。ということは、陸上ならナメクジにあたるわけですが、こちらは人気者。ダイビングをする人にしてみれば、ゆっくりとしか動かないウミウシの仲間は、落ち着いて写真が撮れるし、とにかく色合いが鮮やかで多様性に満ちているのだから、大人気というわけです。 葛西臨海公園から10年。ついに自然の中で見ることができました。奇しくも第20回記念全国ネイチャーゲーム研究大会は、沖縄県渡嘉敷島で行われました。ワークショップでは、あのゲッチョ先生こと 盛口 満 さんの指導で、引き潮で広大な面積を現わす珊瑚礁の磯での観察会。これはもう、大盛り上がり、次から次へと発見が相次いで、面白くて面白くて小雨の中だというのに、あっという間に時間が過ぎていきました。何とも心残りで、最終日、閉会式のあと本島へのフェリーの待ち時間がたっぷりあったので、又磯に行きました。うまい具合に、引き潮の時間帯。やはり、心残りだった人たちと一緒にたっぷり楽しみました。たくさんの不思議のなかに、写真のような不思議な生き物を見つけました。写真でははっきりしませんが、ひらひらは蛍光色に怪しく縁取られているのです。そして、ひらひらの中に貝殻のようなものが有るようなのです。 写真を、海洋生物の専門家の清水さんに見てもらったところ、ウミウシの仲間だろうとのこと。貝殻から柔らかい部分が出てきて、貝殻を包み込むように鳴っているのだとのこと・・・・?? 貝殻はふつう、身体の柔らかい部分を守るために有るのだと思うのですが???さわっても、ひらひら部分を貝殻の中に戻さなかったし????それに、ウミウシって貝殻を無くした巻き貝じゃなかったけ????
とにかく、はてなマークの連続です。清水さんの助言で「ベニシボリガイ Bullina lineata」という名前で有ることが分かりました。普段は砂の中に潜っている生き物のようですが、砂なんか無い磯のプールの中に見つかったのはラッキーでした。半透明できれいなひらひらは、外套膜(がいとうまく)というのだそうです。ベニシボリガイは、巻貝類の中の頭楯類と呼ばれる貝のグループだそうです。巻き貝とウミウシの間に位置する存在で、ウミウシと言っていいのかどうか微妙ですが、ウミウシ図鑑に含まれています。(清水さんによると、ウミウシというのは生物学上正しく定義された名前では無いのだそうです。したがって、人によってどこまでをウミウシにするかは異なるようです。)ともあれ、ベニシボリガイの名前の由来は、白地に紅色のラインを絞模様に見立ててのもののようです。自然は、本当に不思議で、アートですね。2010.6.18
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人と自然の出会い旅67 野の宝物に出会う 〜オオミズアオの輝き〜 それは早朝のフィールドに野の宝のように隠されていたのです。 足柄ふれあいの村で行ったネイチャーゲームの研修会。早朝の〈サイレントウォーク〉の最後を静かに盛り上げた宝石のような生命でした。その朝は〈ネイチャーメディテーション〉と〈美の小道〉を楽しんだ後で、選んでおいた特別の小道を、参加者は無言で静かに歩いてもらいます。各自、ただ沈黙を守るだけでなく、潤いに満ちた自然の中にひたり、歓び、その歓びを分かちあいます。静かで豊かな時がゆったりと過ぎて、予定した時間がそろそろ終わろうとする頃、その宝物はゴール近くで参加者によって見つけだされたのです。宝物に気づいた人たちの歓びの波紋を感じて近づいてゆきます。ところが、雨に濡れた緑の葉が見えるだけです。こんな時は、感覚を研ぎ澄まさなければなりません。すると、私の視界の中に緑色の羽根が浮かび上がってきました。一匹の大きな蛾が草にとまって休んでいたのです。 青白色の羽根が周囲の葉に見事にとけこんでいて、羽についた紋はまるで葉についた水滴のようです。前羽根を縁取る鮮やかなエンジ色がめだつはずなのに、草むらにあると何の違和感もありません。 これまでに何度も見たことのある蛾です。キャンプ場のトイレの灯にも誘われてやってくる蛾のなかにいたりします。初めて見たのはもう30年以上前のキャンプの時。カブトムシを捕るために、ライトで照らされたシーツに寄ってきたのです。茶系の地味な色の多い、虫の中でびっくりするくらい鮮やかな羽根色。エンジ色の縁取りが粋で,ひときわ目を引きます。それは妖しいほどの美しさです。蛾は美しくないというのは、人の思いこみでしかないとつくづく思い知らされます。ただ、夜が明けると、灯と戯れている内に羽根を痛め疲れ切るのか、弱り切ってセメントや土の上にほとんど動くことなく横たわっています。その姿を見ていると、この蛾は何でこんなに目立つ色をしているのだろうと思います。街灯の無い自然の森の中では、この美しさは恋の役には立ちそうもありません。そのくせ、昼間こんなに目立ってしまっては、すぐさま鳥の餌食だろうにと。 しかし、今回草の中にとまっている姿を見て、初めて納得できました。草むらの中では、大きく美しい姿が目立たないのです。美しいままでカムフラージュされているのです。昼間静かに羽根を休めている姿は、色を見分ける能力の高い鳥にも見つけにくいものになっているのです。 ゴールすると参加者の無言の禁は解かれます。集まって、今度は気づきを言葉でシェアします。それぞれの人の気づきの中にこの蛾のことも出てきます。我の名は『オオミズアオ(大水青)』。名前を付けた人も又、この美しい色に魅せられたのでしょう。学名のアルテミスは「月の女神」の意味。この名も良いですね。ネイチャーゲームの歓びの一つは、このように野に隠れた宝物に気づくこと、そしてそのことを共有できることです。 2010.7.13 |
人と自然の出会い旅69 あるヨギとの出会い 日本ヨーガ界の第一人者とされるNさんと出会ったのは、15年前のことでした。 私は、1989年にネイチャーゲームを本格的に学ぶことができて、一気にのめり込みました。1990年に初級指導員(※現リーダー)になり中級指導員(※現インストラクター)をへて、阪神大震災のあった1995年に上級指導員(※現トレーナー)になりました。そしてその1995年、芦原青年の家(福井県)でのネイチャーゲーム初級指導員養成講座が、主任講師としての初舞台となりました。その講座の参加者の中にNさんがおられたのです。 Nさんがヨギ(ヨーガの行者)とも、ましてそんな大物とも知らないまま、初舞台の緊張感と全てが取り仕切れるわくわく感の中、一生懸命に講座を作っていました。Nさんの受講態度はとても熱心なものでした。講義の時は、最前列で興味深げに話を聞いておられます。実習でも決して力まない不思議な集中力を見せられます。目かくしをした(居眠りをしているとの見立てです)番人に、気配と音を消して近づき宝物を取り返すという〈いねむりおじさん〉というゲームが有ります。とても、スリリングで集中力の高まる活動です。このゲームの中で、宝物を取り返す役になったNさんは、音も気配も消してしまって静かに近づかれるのです。そして手には印が結ばれています。その印は、気配を消すというのか隠れるというのか攻撃をよけるというのか・・・とにかくそんな効果があるとのことでした。そして、番人に存在を気取られることなく近づいてしまわれたものです。 施設で出される食事は簡素なもので、日常生活でリッチ食事をされている男性参加者の中には物足りないとの声も上がる中・・・Nさんは、自分は(偏食で)肉は食べないからと、自分の食事の中なら肉や魚といった動物性のものを全て周囲の人にあげてしまいます。その上、穀類を食べればそれで十分ですからと、野菜も周囲の人に半分以上分けてしまわれます。そして、肝心のご飯も、茶碗に半分くらいでおしまい。これで十分とおっしゃいます。人は一人ひとり、身体の仕組みや栄養の取入れ方が異なるのだから一律の必要カロリーという考えかたは間違っているとおっしゃいます。事実、Nさんはとてもスレンダーな体型ではありますが、骨も筋肉もしっかりしていて、気力も体力も充ち満ちておられます。夜の懇親会になっても、ビールをいくらか飲まれるものの、つまみはほとんどとられず楽しそうにしておられます。食欲を我慢しておられる様子が全くないのです。養成講座は、ある意味24時間共同生活をするわけですから、互いに食事量は一目瞭然です。間食もなく驚異的な小食で平然とされているNさんに、何とも不思議なことがあるものだと思わされました。 彼が高名なヨギであると知らないまま、ネイチャーゲームの創始者であるコーネルさんのアナンダ村での生活ぶりなども紹介しました。ベジタリアンで日々瞑想を日課とし、自然と共にある共同生活の話をしたり、「ネイチャーゲームの中にも瞑想的な感覚が生かされているのです」などと、解説もしたと思います。アナンダ村の創始者であるスワミー・クリアナンダの話や、クリアナンダのグル(導師)であり西洋にヨーガを伝えたパラマハンサ・ヨガナンダの話なにもふれたと思います。もちろんNさんはヨガナンダのこともとてもよく知っておられたのですが、黙って聞いてくださいました。今から思うと、冷や汗ものです。 そんな風に、一風変わった受講生であったNさんが、実は高名なヨギであることが分かったのは、講座の終盤になってでした。講座の合間にテレビを見ていた受講生が、たまたま出演しているNさんの姿を見たのです(もちろん収録されたものです)。実は当時、オーム真理教の事件のあおりを受けて、無関係のヨーガ関係者にまでも、取材攻勢がかけられていました。ヨーガ界の第一人者であり、「空中浮揚」で有名であったNさんも喧噪に巻き込まれておられたというわけです。以前から、ネイチャーゲームに関心を持っておられたのですが、首都圏でいくらでもある養成講座ではなく、福井の養成講座を選ばれたのもそんな喧噪から離れたいとの思いがあってのことだったのです。閉講式の後で、著書をいただきました。じっくりと読ませていただいて、すごい人だったのだと遅ればせながら知ったというわけです。 その後、指導者を対象としたステップアップセミナー(※現フォローアップセミナー)の講師として、千葉に招かれたときにも、Nさんは受講生として参加してくださいました。そんなご縁で、私が瞑想系の活動のことについて悩んだときにはNさんに相談すると、快く丁寧に解説して頂けます。時間が合えばNさんがやっておられるヨーガの研修会にも、時々参加させてもらっています。体が硬くていわゆるヨーガのポーズはうまくできないのですが、そのたびに私自身の内面を探求するチャンスにもなっています。そして、ネイチャーゲームにつながる学びを得させてもらっています。Nさんは、自分が著名なヨギであることを明かした後も、とてもフレンドリーです。偉ぶらないのです。権威で人を従わせたり、集団を統制することに興味がないようです。不可思議な現象の話をされるときも、淡々としていて、そのことを信じることができない人は排除するなどという雰囲気が一切ありません。「空中浮揚」も信じられない人は信じなくてもいいですよと普通に言われます。 人との出会いは不思議なものだと思います。沢山の偶然が積み重なって出会いがあります。人知では計り知れない偶然の積み重ねは、必然を意味します。Nさんに関わる沢山の出会いも又、不思議で必然の出会であると感じています。 2010.8.5記 |