「モヤさん」の人と自然の出会い旅]Y

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人と自然の出会い旅71

巨大ミミズとモグラ

 ふつうのミミズに比べて長くて太いフトミミズの仲間に、シーボルトミミズという超大型のミミズがいます。なにしろ、青っぽい上に、30cm以上にもなるので、まるで小型のヘビのようなミミズです。四国ではこのミミズは、「カンタロウ」と呼ばれて親しまれています。中国地方にもいるらしいのですが、少ないようで見たことがありません。
 カンタロウミミズを初めて見たのは、今から10年くらい前の徳島県で行ったネイチャーゲームの研修会のことでした。徳島市内にある眉山での研修は、途中から雨が降り出しました。雨も自然現象ですから、傘を差して楽しく続けます。車道を皆で歩いていると、雨の中のアスファルト道の上にカンタロウがいたのです。あまりの大きさに、世の中にはこんなに大きなミミズが存在するのかと驚きました。そう、最初は驚いたのですが・・・そこは、自然大好きの仲間。早速、観察会です。そして、棒でつついてみます。当然いやがりますが、めんどくさいなあといった雰囲気で、軽くくねくねするだけです。さすが大物です。
 ところが、どんな感触なのかと直接指でツンツンしてみると・・・事態は一変・・・大暴れをしだしたのです。さっきまでの、悠然とした動きはどこへやら、もう錯乱状態と言っていい状態です。他の仲間も呼んで、棒でつつくのと指でつつくのとを繰り返し実験してみましたが、同じことです。なぜこんなにも違うのか??・・・そのときの結論らしきものは、指で触られると、ミミズの天敵モグラにさわられた時のことが想起されて、危機感から大騒ぎするのではないか。あるいは、ある個体の経験というよりは、遺伝子の中に組み込まれた危機感であるかも知れないというのが、このときの推論でした。〈※1
 上記、推論を補完するような出来事がありました。この秋、高知県の香北青少年の家でのネイチャーゲームリーダー養成講座の最終日のことです。私の場合最終日の早朝プログラムとして、半ば恒例になっている〈サイレントウォーク〉の前に〈狩人の訓練〉という活動をします。この活動は、狩人になるための訓練を想定して行います。フィールドの中に静かに座って、自分が石や木であるかのように身じろぎ一つしないで、気配を消して周囲に気をくばるのです。狩人にとって、獲物に近づこうと静かに歩いても音や気配を出してしまいます。だから、動かずに気配を消している方が、はるかに効果的だからです。(またぎの人たちが木化け・石化けといっている状態です)こうしていると、自然がありのままの姿を見せてくれます。そして、自然ととけ込む体験ができるのです。
 この活動の最中に、講師を務めていたFさんは、その朝あらわれた鹿が見られるかもと思いながら、周囲に注意を払っていました。ところが、足下で葉や根を裂くような音がします。約束通り、頭は動かさず目線だけ足下に向けると。なんと、カンタロウミミズがいます。音の主は、このミミズか??ミミズがこんなに大きな音(といっても微細な音で通常なら聞き取ることができなかったでしょう)がするのかと、思っていると・・・(※2)。土の中からモグラの鼻面が出てきたのです。大物のカンタロウを追いかけて探しているようです。その状況で、カンタロウはどうしていたかというと・・・動かなかったそうです。モグラが獲物を見つけるのは音〈震動)と匂いです。自分で動いてしまっては、居場所を知らせてしまうという「知恵?」のようです。モグラも、この近くにいるはずと懸命に探しています。あちこちから鼻面を出してきます。こうして、モグラとミミズの虚々実々のバトルが続きます。決戦の場所は少しずつ移動してゆきます。そして、モグラの鼻面がカンタロウから離れたあたりを探しているとき、カンタロウは斜面を滑るように逃げていったというのです。ヘビのような形からは想像できませんが、棒状に身体を伸ばしたまままっすぐに逃げたそうです。そうです、クネクネとは逃げなかったのです。ひたすらまっすぐにそれこそ一目散に逃げていったのです。ミミズの脳はそんなに大きくないはずですが、こんなにも危機状況を判断し、対応できる能力を持っているようです。〈※3
 ミミズが、生態系の中で果たしている役割と共に、なかなか侮りがたい存在です。
2010.9.27

※1 徳島での経験から、各地で棒でさわるのと指で触るのとの変化を試しています。シーボルトミミズに限らず、指を嫌うようです。ただ、高知では同じようなことを、参加者がしたらしいのですが、そのときは3人試した1人の指だけに、大きく反応したそうです。反応した1人だけ体温が高いのかと思ったのですが、3人の中で一番手触りは冷たかったそうです。あるいは、その体温が一番、モグラに近かったのかも。

※2 シーボルトミミズは、「主に森林の土壌の表面から落葉下の数cm程度までで生活し、冬は暖かい地中に潜って越冬する」のだそうです。ですから雨でなくても、地表でこのミミズを見ることは、まあ十分にあり得ることのようです。  

※3 シーボルトミミズの移動の時の動き方は、大きく3種類あるようです。@上記のように伸縮しながら直線的に進む方法、A蛇のようにくねくねと蛇行しながら進む方法、B体を曲げてぴょんぴょん跳ねるように移動する方法です。

※4 シーボルトミミズは、寿命2年だそうで、世代の重ならない2年周期の生活史になっているようです。同じ時期に産卵し、同じ時期に一斉に孵化して成長してゆくようです。高知では偶数年に成熟個体が現れるそうです。2年目の6〜7月に産卵をすませると死滅するようです。卵は越冬して4月頃卵から孵るというわけです。まるで、17年ゼミのようです。今年は偶数年ですから、産卵が終わったくらいでしょうか。
参考: http://www.geocities.jp/at_mocha/mimizu/sieboldi-7.html


自然のおもしろクイズの中にミミズさんのお仕事を作りました

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人と自然の出会い旅72
クモの網の輝きと不思議

早朝の散歩では、輝くクモの網に迎えられることが多い。いつもは、目立たないクモの網に、朝露がついてキラキラ輝いているのです。ジョロウグモの巨大な網。生け垣や草むらのあちこちに張られたクサグモの棚網・・・その上にできた真珠の輝きをもしのぐ輝く水滴に目を見張りることになります。 
 愛媛の大洲青少年交流の家でおこなった、ネイチャーゲームリーダー養成講座は断続的に降る小雨の中でおこなわれました。最終日の朝、雨が上がり、前夜の雨に早朝の霧も加わって、ありとあらゆるクモの網がその姿を現していました。なんという数の多さでしょう。思いもかけない高みや小さな隙間にまで大小の網が張られています。驚きの中で、一枚一枚の網をじっくりと見ていると、新たな気づきがあります。これまで、クモの網(巣)に持っていたイメージとは異なる網の姿があるのです。
 そこここにあるジョロウグモの網は、丸ではなくてどの網もどの網も楕円の上部が切れた馬の蹄の形(馬蹄形)をしています。これでは、らせん状にグルグルと回りながら横糸を引けないだろうにと、糸の流れをよく見ると。枠の糸にぶつかるとそこで折り返すように糸は張られています。ジョロウグモの横糸は振り子のように行ったり来たりして張られていたのです。しかも、ほとんどの網で、網の途中にも折り返し点があって、まるで何かにぶつかってはね返されているようにすら見えてします。横糸だけではありません、放射線状に張られているはずの縦糸も、よく見ると中心部も中心部も間隔がほとんど変わりません。クモの縦糸は自転車のスポークのように張られて、外側の幅が広くなるはずでは・・・・。でも、目の前の網は違うのです。どの網もどの網も。
思えば、これまで何度も、いや何百回も何千回も目にしてきたはずのジョロウグモの網のつくりの不思議さにいまさらのように気づきます。いったい、今まで何を見ていたのだろうと反省します。「見えていても気づかない。」そんな気づきをしてもらえたらと、20年以上も自然案内人をしてきて・・・。こんな身近なことに気づけていなかったことの驚きです。でも今、気づけたことの面白さ。喜びに変わってゆきます。フィールドが、クモの網が、思い込みの世界から解放されて、違ったものに見えてくるのです。

 講座の最終実習の場面では、どの会場でも築いた成果に静かな静かな充実感に満たされるものです。その満たされた気持ちで、見上げた一本の桜の木に・・・・。それはそれはたくさんのクモの網が張られていて、青空に輝いています。なんと美しくすがすがしかったことか。

出会い旅の第2話で、クモ好きの人のことを紹介していたのに・・・。講座が終わって、知的好奇心に導かれて、あらためてクモの網のことを調べてみました。その中で、分かったことを中心に、自然の面白クイズ第41弾「くもさんのあやとり」を作ってみました。どうぞご覧ください。
2010.11.5


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人と自然の出会い旅73
食べられるものを自分の感覚で見分ける人

 ネイチャーゲームは、感覚を開いて、自然を直接体験する活動なんです。ある時は凝視し、ある時は目を閉じて耳を澄まし、触り、匂いをかぎ感覚を研ぎ澄まします。感覚に集中することで、それまでは見過ごしていた、自然の細やかな姿に気づくことになります。ところが、五感のうち味覚だけはなかなか取入れにくいのです。もちろん、食事をしながら、その味の中に季節を感じたりすることはできます。でも、フィールドで味覚を通じて自然を感じるとなると、リーダーがよほどしっかりとした知識を持っていて、安全を確保しなければできません。ということで、なかなか一般化はむずかしいからです。間違えて、有毒のものを口にしてしまう事故の可能性を考えると、一般化には二の足を踏んでしまいます。ただ、味覚を使った活動はできないものかと思いを巡らしています。
 岐阜の根ノ上高原にある「あかまんまロッジ」というなかなかおしゃれな施設で研修をしました。施設に着いたらいつものようにすぐ下見。秋たけなわのフィールドは、とても色とりどりで、興味深い物が続々と現れます。キノコも豊富にあります。いかにも美味しそうなキノコ、怪しげなキノコ、とにかく種類も数も十分です。でも、なかなか手が出せないのがキノコです。
 施設の食事には、オーナーの奥様が自ら採集したキノコを使った料理が出ました。これが又美味しいのです。食べながら、キノコの話になりました。毒キノコを見分ける方法についてオーナーと話していると、なかなか過激な提案がされます。「図鑑とかに頼るのではなく、自分の味覚で有毒か無毒かを感じ取れるようでなければならない。現代人からそのような感覚が失われていることこそが問題だ」とおっしゃるのです。人がなぜかくも広範囲な食べ物を食べることができるのか、それはご先祖様が、自分の感覚を信じて毒味をしてきたからではないのか。図鑑なんか持ち合わせない野生の生き物は、自分の感覚で見分けているではないかというわけです。もちろん、知らないキノコを闇雲に食べていては、いくつ命があっても足りません。分からないキノコ、怪しいキノコを、少しだけ口に含んでみる。そこで、舌の感覚を総動員して感じるのだとおっしゃいます。舌先がしびれたり、違和感があるようならそれはとにかくダメ、少しだけ口にしたものを全て吐き出し、口の中を洗う。洗っても、違和感が残り続けるものがあるそうですが、飲み込んでいなければ命に別状は無いのだからというのです。そういえば、キノコに専門家からも似たような話がありました。詳しい図鑑にも食べられるかどうか記載が無いものも多いというのです。では、図鑑に記載してあるのは、どうやって見分けているのかと聞くと・・・先人の知恵を生かすのだけれど、最終的にはやはり口にしてみて判断するのだとのことでした。あかまんまのオーナーと同様な意見でした。先人の知恵といっても、先人がそのようにして切り開いてきた知恵だというわけです。
 私も、参加者にはともかく、結構チャレンジしてしまいます。この木の実は、とかこれはどんな味がするのやらと、おそるおそる口に含んでみるのです。ただ、一口だけでは甘みがあったりして、いけそうなものにも有毒なものがあったりするので慎重でなければなりません。ヨセミテで1人で歩いているときに・・・・巨大な倒木の折れたところから松ヤニが出ていました。どんな味なんだろうと、好奇心に駆られてなめてみました。美味くはない・・・その上なんだか口に残る・・・当然つばとともにはき出しました。ところが、この後強烈な下痢に見舞われてしまいました。命には別状無かったし、重要な健康上の問題も起こりませんでしたが、やはり口にするのは自己責任。他人にすすめるのは、怖いですね。
 さて、根ノ上のフィールドでいかにも美味しそうに見えた白いキノコは「スギヒラタケ」という名前でした。このキノコが、なかなかに微妙なキノコでした。もともと食べられるキノコとして普通に食べられていたキノコのようです。ところが、2004年にこのキノコを食べて死亡した事例が続いて、食べなくなったと言うのです。なぜ、昔から食べられていたキノコで突然死者があらわれることになったのか、未だに詳細な原因は不明なようです。どうも、腎機能の低下した人が食べると危ないようです。さらに、死者の中には腎臓病の既往症のない人も含まれていて、原因がはっきりするまでとりあえず食べない方が良いと厚労省のお達しがなされているようです。おかげで、フィールドには美味しそうなスギヒラタケがあちこちに取り残されているというわけです。スギヒラタケを食べても私は多分大丈夫だろうと思います。当然、口に含んでも特に問題は無いと思われます。そう考えてみると、ますます他人に口に含むことを勧めるのできそうもありません。
 でも、そうやって自分の味覚で、探ってゆくことから全部逃げてしまうのは、オーナーのおっしゃるように、それはそれで文明の危機だとも思うのです。他人には、安全を承知した上で、チャレンジしてもらいたいな。

2010.11.9

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人と自然の出会い旅74
 落ち葉に囲まれて大地になる〜大地の窓〜

 国立オリンピック記念青少年総合センターでトレーナー研修がありました。新幹線のダイヤが大幅に乱れるほどの集中豪雨も、雨が去ると雲一つ無い晴れに一変。そして強風。大地を覆う葉はたちまちの内にが乾いてゆきます。次の日の早朝、数人のトレーナーで代々木公園に行って大地の窓を楽しみました。代々木公園には大量な落ち葉が集積された一角があるのです。もう、ふかふかです。あまりにも大量であるために、さすがに乾ききっていませんが、誰の手も借りることなく自前で葉の中に埋もれることができてしまいます。足にも腹にも胸にも顔の上にも葉をかぶせて、最後に手を落ち葉の中に潜り込ませればOKです。湿っていた葉も体温で少しずつ乾いてゆきます。大量の落ち葉に埋もれて、外気から遮断されていると。どんどん一人の世界になり、静かに自然と向き合います。
 見上げる空は雲一つ無い青空です。それを遮るように、空高く網の目のような桜の枝がシルエットになって広がっています。そして、高いところの枝の先が登り来る朝の日の光に彩られています。セルフでやっているので、交替しなくても良いのですから、延々と大地の窓を続けていると、カラスがやってきて、首をかしげて不思議そうに見下ろしています。どこかへ行ったと思ったら、たくさんの仲間と一緒に帰ってきて鳴いています。葉に埋もれている姿を確認するように低く飛んでゆくカラスもいます。又、1羽だけになって同じ場所から眺めています。カラスがいないときには、小鳥たちがやって来ます。枝の先の青空を悠然と横切ってゆく鳥たちもいます。その間に、朝日に輝く枝の部分が少しずつ広がってゆきます。とても、満ち足りた時を過ご巣ことができました。

 数あるネイチャーゲームの中で最も有名なアクティビティの一つが〈大地の窓〉だと思います。大地に横たわり、たくさんの落ち葉で埋めてもらい、顔だけ出して空を見上げるのです。なんてことの無い活動のようですが、文字通り大地になったような気持ちになれるのです。もっとも、大地にそんな感情があるのか?と問われるとちょっと返答がつらいですが・・・・ともあれ、それはとても豊かな時間が過ごせます。
 以前は、ネイチャーゲームの初級指導員(現:リーダー)養成講座では、原則必修のアクティビティでしたし、必修でなくなってからも、それはそれは豊かな体験ですから、落ち葉に恵まれれば、かなり無理をしてでも体験してもらっています。
 私自身の初体験はいつだろう?と、記憶をたどってみます。たぶん、1989年に福岡で全国レクリエーション研究大会が行われた時の、ネイチャーゲーム部会。今宿野外活動センターで体験したはずです。ところが、どうしたわけかその時の情景がよみがえってこないのです。1990年の香川県の満濃池での養成講座の時にも、体験したはずですがこれも情景が思い出せません。大地の窓の強烈な体験を思い出せないとは何とも不思議です。ひょっとすると、どちらも大人数の参加者でしたから、準備する葉の量の関係で全員の体験はできず、見本を示されただけだったのかも知れません。はっきりと記憶に残っている最初の大地の窓は、1991年に広島県立福山少年自然の家で行った養成講座の時のものです。少年自然の家から少し離れたところにある緑陽公園の一角でした。落ち葉が少なかったので、刈り取られた草を使っての大地の窓でした。それでも、不思議な豊かさを感じたものでした。
 全国各地で、様々な条件で実施してきました。スタッフが大変な思いをして集めてくれた落ち葉もありました。杉や檜や松といった針葉樹の葉に包まれたこともありました。紅葉や銀杏のカラフルな葉に彩られたことも、朴の大きな葉に埋もれたことも、街路樹から集めてきた楠の葉だったことも、雨に濡れた葉を乾燥室で乾かしてもらったこともありました。秋から冬にかけては特におすすめの活動です。

 そうそう、夜の大地の窓もしました。そのことは、次回。
2010.12.06

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人と自然の出会い旅75
夜の大地の窓

通常は、昼間する《大地の窓》を夜やってみようと思ったのは、ずいぶん昔のことになります。とても、ゆったりとして気持ちの良い活動ですから思いっきり長く落ち葉に埋もれていたくなります。あまりの気持ちよさに本当に眠ってしまう人もいるくらいです。もちろん、眠ってしまってはもったいないですから、寝ずに楽しむのをお勧めします。

ところが、リーダー養成講座や研修会や地域の会での実践・・・どれをとっても、普通時間制限がありますから、10〜20分くらいで交代します。落ち葉の中に入っている人にとっては、もっと続けたかったという気持ちになるものです。まあ、腹八分目で「もっと」と思っているうちに打ち切るのもそれなりに意味はあるのですが。それも分かった上で目いっぱいやってみたい、飽きるほど落ち葉の中に居続けたいと感じます。それなら、「時間のある夜にやろう」ということになって、今から十数年前に、研修会で全国の仲間が代々木のオリンピック記念青少年総合センターで集まっていたときに実行しました。夜の研修も終わった頃、仲間を誘ってお隣の代々木公園に向かったのです。
 以前から目をつけていた、落ち葉の吹きだまりに行って、各自落ち葉に埋もれました。当時の代々木公園には、ホームレスの人たちが作ったダンボールとブルーシートで作った家が建ち並んでいました。住人が、遠くから不思議そうに見ている雰囲気も感じながら、私たちは段ボールもシートも布団も無い状態で、たっぷりと1時間くらい楽しむことができたのです。東京の真ん中と言っても良い代々木公園の、夜空には星が輝き、都会の喧騒を忘れさせるとてもいい体験でした。
真冬(1月のことです!)でしたが、さほど寒くも無く・・・、これなら一晩中本当に寝てしまうことも可能ではないかと思ったものです。アイディアは出たのですが、思いついただけで本当に落ち葉に埋もれて寝る(・・・そもそも《大地の窓》は、寝ないのが原則ですが)ことはありませんでした。
 埼玉に国営武蔵丘陵森林公園という施設があります。とてつもなく広大な森林公園は入園料の必要な公園ですからで、夜になると閉鎖されます。たまに利用する宿泊者以外には誰もいなくなってしまうのです。これは、夜の静けさや闇を使いたい活動には最適な環境といえます。とても贅沢な活動が可能になるのです。いろいろと、実験的なアクティビティを実施してきました。2年前にトレーナーの研修で森林公園を利用した時(12月)、公園のあちこちに、新鮮な落ち葉の吹きだまりができていました。これはと、10年来暖めて来た、アイディアの実行を決意しました。夜の研修も、夜の懇談会も終わった後、施設で熊手を借りて、落ち葉を集めにかかりました。膨大な量の落ち葉を集めることができました。その話を他のトレーナーにもしたら、OさんとMさんが乗ってきました。3人で、朝まで《大地の窓》の決行です。
 真冬の深夜でしたが、予想通りたっぷりの落ち葉の中は暖かで、充分楽しめます。梢にのぞく星たちのきらめきを楽しみます。若いときから、(テント泊ではない)野宿を数え切れないぐらいしてきた私にとっても、特別の感覚です。落ち葉の中から顔だけ出しているのですが、その顔の受ける冷気がまたすがすがしいのです。ところが、夜がどんどん更けるに従って、気温は下がってきます。その上、無意識にしてしまう身じろぎによって、体の上に欠けている落ち葉は動いて、落ちてゆきます。落ち葉の層が薄くなれば、当然暖かさは減ってしまいます。そんな中、OさんとMさんは中断して宿泊施設に入ってゆきました。残されたのは、私一人。2人が使っていた落ち葉も加えて続行です。ついに、夜明けまで続けることができました。
 夜明け前には、それまで有った微風も止まったこともあり、落ち葉の上には霜が降りて白くなっていました。長時間寝返りが打てない状態が続くのは、つらいですが充実して面白い体験でした。条件に恵まれたら是非挑戦してみてください。サバイバルの技術としても、結構行けそうです。何の準備もないまま、森で夜を明かさなければならなくなったとき、もし落ち葉がたくさんあったら、敷布団なり掛け布団として利用しましょう。この知識が、あなたの生命を救うことになるかもしれません。
2011.1.19


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