「モヤさん」の人と自然の出会い旅X

 出会い旅目次へ  ネイチャーゲームへ  トップページへへ 

 

人と自然の出会い旅14
裸足で歩くと感覚が開くのです

 知る人ぞ知る、私の場合ふだんの生活の基本は素足です。(外にでるときにはサンダルは履いています・・・念のため。)昔はどこでもそうでしたから、コーネルさん(ネイチャーゲームの創始者です)の住むアナンダ村(カルホルニアの東シェラネバダ山脈の山中にあります)を訪れた時も、登山も含めて全日程素足にサンダル履きでした。(ヨセミテでフリークライミングの講習を受けた時だけは専用シューズを履きました)
 
 そんなわけで、海辺で、山で、芝生で気が向いたらすぐに、裸足になってしまいます。ネイチャーゲームの中にも「裸足であるこう」という活動があります。難しくありません、皆と一緒にただ裸足でフィールドを歩き感じるだけの活動です。ところが、これがなかなか楽しいのです。
 寝るとき以外は靴を履いている欧米人(<陰の声>風呂にはいるときはどうしているのだ→ハイ、靴を脱ぐと思います・・・多分)にとって、裸足になるというのは、すごく勇気がいるし、それだけにとてもインパクトが強いのだろうと思います。家に帰ると靴を脱ぐのが、当たり前の日本人にとっては、さほどインパクトはなさそうですが、実際やってみると、けっこう楽しいことがあるのです。

 あちこちで、ネイチャーゲームとして「裸足であるこう」を、してきましたが、今までで一番強烈で楽しかった体験を一つ紹介します。

 もう4・5年前になるのだろうと思いますが、広島県の北にある吉田町といところ(毛利元就の本拠地です)で、ネイチャーゲームのステップアップセミナーをしたときのことです。講師として来てもらった大島順子さんに、特別プログラムをお願いしたところ、真冬の早朝に実施に実施してもらいました。雪はなかったのですが、霜がおり空気はピーンと張りつめて、文字通り凍てついていました。キャンプ場に行き、さあ裸足になりましょうと言われたときには、さすがの私も「ウッ」と思ってしまいました。他の人たちも、そうだったでしょう。しかしそこは、ネイチャーゲームの指導員の研修会です。一瞬の躊躇はありましたが、次々と、靴を脱ぎ、靴下をとり、裸足になってゆきます。とはいえ、一歩踏み出すと、想像を超えたその冷たさに皆すくんでしまったのです。
 それでも、大島さんはゆっくりと移動をはじめます。「ウッソー」と声にならない声を発しつつ、大島さんのあとをついてゆきます。メチャメチャつらいのになんだか口元がほころんできます。なんだか楽しいのです。冷たいので、ふつうの裸足で歩こうよりゆっくりになります。一歩一歩踏みしめながら歩きます。前をゆく人の通ったところ(足跡)を歩くと、ほんのりと暖かさを感じます。そのうち、最高に感覚が研ぎ澄まされてきます。足の裏に感覚が集中するのはもちろんですが、他の感覚も開いてくるのです。棘を踏まないように気をつけながら藪の中にも入ってゆきます。ふと、一緒にいた皆が獣の気配を感じます。周囲を見ると、イノシシの足跡があるではないですか。ぬた場というほどではないのですが、イノシシが遊んだ跡のようです。次々に足跡以外の痕跡も見つかって行きます。

 嗅覚というのは、不思議な感覚です。視覚や聴覚に比べると、意識化されにくい面があります。それだけに、人の心の深いところに影響を与えることになるようです。レイチェル・カーソンもセンス・オブ・ワンダーの中で『嗅覚というものは、ほかの感覚よりも記憶をよびさます力がすぐれていますら、この力をつかわないでいるのは、たいへんもったいないことだと思います。』と言ってます。確かに、吉田での裸足で歩こうをした後、イノシシの臭いを感じる場所に行くと何となく懐かしい感覚が伴うようになりました。

 次回は、雪の上で裸足で歩いた時の思いでを書いてみましょう。
2000.4.5


出会い旅目次へ
人と自然の出会い旅15
雪の上でも裸足であるいてみよう

 2年くらい前のこと、代々木にあるオリンピック記念センターで、ネイチャーゲームの研修会が行われたときのこと。大雪が降って、東京の交通機関にかなりの乱れができたほどでした。それでも、室内外で研修は行われました。夜、研修が終わっても、話は続きます。談話室に集まって、ネイチャーゲーム談義に花が咲きます。ひとしきり話がすんで、ふと中庭を見ると、裸足の足跡があるではないですか。なんだなんだと降りていって、私たちも裸足で庭へ。ところが他の人はあまりの冷たさに引き上げてゆきました。ところで、そのとき私たちより先に裸足で歩いた人がいたわけで、世の中には他にも変な人いるものです。しかも、その足跡の大きかったことあれは30センチくらいあったのではないでしょうか。記念センターは外国の人もよく使う施設ですから、あるいは外国人の足跡かもしれません。いずれにしても、その足跡を付けた人がどんな思いで、どんな表情をしてそこを歩いていたのかいろいろ想像してしまいました。

 ネイチャーゲームの仲間というのは「変な人(注:悪口でも、卑下でもありません)」の集まりですから、数ある指導員の中には、けっこう雪の上を裸足で歩いてしまっている人がいるようです。これは、茨城の筑波山の麓に住むネイチャーゲーム指導員のSさんの体験です。
 『先日7日〜8日にかけてこちらは雪が降りました。まだ家の北側には雪が残っています。さっそく歩いてみました。新雪の時ではなくて2〜3日たって表面が凍って下がざらめ状のときに歩いてみました。1歩足を出したとたん、つんと体が硬直してしまいましたが、瞬間であとは冷たさはあまり感じられず歩けました。靴を履いて歩いた時と違って、音まで優しく気持ち良かったです。最初の1歩の、つんと体がした感覚を後で考えたら、霜柱の気持ちかなと思ってしまいました。真直ぐにピキッと立っている姿が、霜柱かな・・・・・・・
 霜柱なんですが、朝日を受けた霜柱はじっと見ているだけでなんとも言えず感動します、地面の下から出てくるんです、皆で手をつないで、そして朝日をみて暖められて地面に帰っていくんです。その時の霜柱の言葉きいたことありますか。やわらかな声をだしますよ。
手を放して倒れる姿に、明日またおいでといいたいです。何か変な方向にいってしまいました。裸足あるきが霜柱などに変わってしまいまして・・・・・・・・・・
 裸足歩きもこれからだんだんと、大地の暖かさを感じられますね。 皆で感じましょう、太陽を、大地を、風を・・・・・・・・』というわけで、なかなか素敵に変な人です。

 私も、先日(2000年3月)「裸足で歩こう」をしました。岡山で行われたネイチャーゲームのクリニックセミナーでのことです。2泊3日の研修会だったのですが、夜は、お決まりのわいわいがやがやの懇親会の中で、最終日の朝に何かフリープログラムをということになりました。外は綺麗な雪景色です。それでは、その雪の上を歩いて見ようと言うことになりました。そう!裸足で。
 早朝の玄関に4人の「変な」人たちが集まって来ました。早速裸足になり、まず中庭へ、雪の中にゆっくりと足を踏み出します。「なんでこんなことしてるのだろう」そんな思いが、それぞれの胸をよぎります。春の雪は湿っていて、容赦なく足を襲います。雪が消えているところに行くと、足の緊張感がゆるむのを感じます。「それにしても、この状態でどれくらいの時間実施するのが適当なんだろうか」と頭の片隅で考えていました。あまり長く続けて個々人の限界を超すと、マイナスのイメージが残ってしまうからです。
 しかし、やっている内に次第に気持ちがのってきます、他の人たちものってくるのを感じます。そうなってくると、痛いのも冷たいのもなんのその、施設内を変化を求めてうろうろ・・・・。そのうち炭焼小屋にやってきました。見ると、残り火があります。暖かいはずの灰の上に足をかざしてもあまり暖かさを感じません。それではと、灰の中に足をつっこんでみても、暖かさを感じません。が!、数秒後に、う!熱い!!!。この時間差攻撃はなんなんだといったところでした。さらに、赤土を掘り返した後に水がたまっているところに、足をつっこんでみると、このグニュグニュ感がたまらんのです。交代してグニュグニュを楽しみました。最後は、みんなで雪をバックに記念撮影をして、雪解けの水たまりで足を洗いました。このころになると、この水をそんなに冷たく感じないから、人間の感覚というのは良くできています。
 どうですか、皆さんも雪が降ったらどうぞ裸足になってみましょう。(と書いている今はすでに4月、北海道ならともかくもう雪は降らないかな、雪でなく桜吹雪が舞っています。では吹雪の中を歩いてみますか)

2000.4.20

出会い旅目次へ
人と自然の出会い旅16
集まって来る骨達の事
 最近、「これあげましょう」とおみやげ代わりに骨を持ってくる人がいます。私としては、骨がそんなに好きなわけではないのですが、骨好きと思われているようです。

 そもそもの発端は、一昨年(1998年)江田島でのネイチャーゲーム初級指導で、カラスの頭骨を発見したことです。講座の中で色々のゲームをしますが、その中の人気ゲームの一つに「カモフラージュ」があります。この活動は、一定の自然の中にセットされた人工物を探すことを通じて、集中して見る訓練と共に、自然界のカモフラージュについて考えるものです。30分から40分くらいの間に、どんどん集中力が高まり、ふつうでは気づかないものまで見えてきます。指導者が撤去したはずのゴミを、参加者が見つけてしまうなんて事もよくあります。
 このときも、コースの端の方で、参加者が不審なものを見つけました。場所的にセットするにはすこし遠すぎる位置に、黒いものがあるのです。あれは人工物か?自然のものか?いったんゲームが終了して近づいてみると、何とカラスの死体だったのです。死後かなりの時間がたっているらしく、ほとんど肉は残っていません。骨と羽だけなのです。特に頭骨はとても綺麗に残っていたのです。面白いことに白い骨の先についたくちばしは、黒いのです。白い骨の上にくちばしだけは上にかなり厚く黒い物質がコーティングされている構造になっているました。
 ふと、これは面白いぞ思いました。頭骨だけ取り出して、水洗いして皆んなに見せました。ポイントはくちばしの色と、骨の軽さです。特に、軽さは持ってみるとその大きさからそれぞれの人が予測している重さと全然違うものなのです。皆の反応は半々です。カラスの頭骨であるとわかると、完全に引いてしまって、触るなんてとんでもないという人と、オッ!という感じで、身を乗り出して面白がる人です。
 皆の反応も面白いし、鳥類の骨が軽いことを実感するにもちょうど良いと思ったので、壊れないように工夫して持って帰ることにしました。このあたりから、身を乗り出して面白がっていた人も、「そこまでするか、変わっているなー」という反応になってきました。
 その後も、あちこち持ち歩いて自慢し、時には「いねむりおじさん」というネイチャーゲームで宝物として使ったりしました。この活動は、番人が居眠り(目隠し)をしている間に、気配と音を消して宝物を取り返すというものです。音はもちろん、気配というものが確かにあるということも実感できるゲームです。この宝物に、カラスの頭骨を使うと、何か不思議な力を持った宝物という物語設定にリアリティーがでてくるのです。さらに、番人に近づいて宝物をとろうとカラスの頭に手を伸ばしたときの、心の動揺が番人に伝わることがあって面白いのです。必然的にそーっと持ってゆくようになるのも、このゲームのねらいにピッタリなのです。もっとも、人によってはせっかく近づいたのに、ついに(恐怖のために)触ることができない人がでてしまうのには困ってしまいますが。
 こおして、あちこちでカラスの頭骨をネタに遊んできたことで、「もやさんは骨が好きらしい」という思いこみをうんでしまったようなのです。そして、フィールドで骨を見つけると、自分で持って帰るのは気が引けるのでしょうが、「もやさんなら」とうれしそうに、ご持参いただるわけです。(改めて断っておきますが、私は別に骨フェチではありませんのでそこの所よろしく)・・・それでも、骨って確かに面白くはあります。
 先日(2000年5月)ネイチャーゲームの全国研究大会が千葉でありました。「やっぱ海だっぺ」と、海にこだわった3日間で、2日目夕食までの自由時間にも、また海岸で遊びました。引き潮の海岸は、面白いものがたくさんあって、ワクワクします。そろそろ時間だから帰ろうかと思っていると、岡山のNさんが、大きな死体を見つけだしました。帰りかけていた皆も、その巨大な遺体(人間の身長くらいありました)のまわりにあつまってきます。腐乱臭に耐えながら、見てみるととにかく巨大、はみ出している腸は女性の腕ほどの太さがあります。ヒレと思われるあたりには骨が並び、なぜか腸がはみ出しているあたりに、歯のようなものが並んでいるのです。Nさんは、これはイルカではないだろうかといい出します。でも、だれも腐ったイルカの死体なんて見たことありませんから、確信が持てません。そこで、ヒレの骨と思われるものと、歯と思われるものをちぎりとって持ち帰ることにしました。
 何しろ全国研究大会です。色んな専門家がいます。海洋生物を大学院で研究していた鹿児島のSさん、講師で来ていたケビン・ショートさんに、早速聞いてみます。専門家の意見はさすがに違います。僕たちが歯ではないかと思っていたものを見て、すぐにこれは歯でなく骨だと言われてしまいました。そういわれてみれば、確かに歯のような形はしていいるのですが、中が海綿状になっていて歯としてはもろいのです。それに、思い返してみると頭骨がなかったのです。では何か?それについては資料不足で、二人ともわからないといいます。ヒレの所の骨ではないかと思っていたものは、これは軟骨ではないこと言われてしまいました。確かに長いのだけれども半透明で、骨の構造ではないようなのです。結局のところ、どのような生き物のどのような部分なのかついにわからずじまいでした。悔しいので、この骨も持ち帰る事になってしまいました。いつの日か、この骨の正体を調べてみたいと思っています。こうして、また骨のコレクションが増えてしまった・・・。くれぐれも、私は骨フェチでも、コレクターでもありません・・・・。
2000.6.17

出会い旅目次へ

人と自然の出会い旅17
語るバス運転手さん
鹿児島に指導に行きました。講座が終わって、念願の屋久島を訪れました。山は台風の余波もあって、滞在中ずっと雨でしたがとても楽しい旅でした。環境文化村・淀川小屋裏の淀川での川遊び・宮之浦岳・縄文杉をはじめとする屋久杉の原生林・・・・。このことは、また別の機会に譲るとしましょう。

登山口(ヤクスギランド・紀元杉)に行くためのバスに乗ると、乗客は私一人。一番前に陣取って、運転手さんと話すことになりました。屋久島のこと・山のこと・登山客のマナーのこと・家族のこと等など話題はつきません。運転手さん自身、登山をする人だったので、登山道や山小屋の様子なども親切に教えてもらいました。
途中で、夫婦(多分)連れの乗客が加わって、バス独り占め状態は崩れましたが、いぜん運転手さんの語りは、元気です。

突然、道路脇にヤクザルの小さな群が現れました。当然のようにバスは止まります。後方でうとうとしていた夫婦ずれも「なになに」といった様子で、目を覚まします。「猿が」と指さすと、カメラを出してきて窓からパチリパチリ。母親にしがみつく小猿のかわいいこと。犬山市の日本モンキーセンターに、ヤクザルの猿山がありますが。毛並みが全然違います。野生の美しさというものでしょうか。

大きな屋久杉が道路脇にあると停まってもらえます。ただ停まるだけでなく、説明が始まります。木の成長の様子・落雷のこと・杉と松類の見分け方・若い杉と1000年以上の杉の見分け方・屋久杉を痛めるヤマグルマのこと、とても丁寧なのです。説明は、頭に着けたマイクを通じてバス中に響きます(といっても、乗客は3名だけですが)。いいポイントに来ると、必要に応じてバスを止めての説明です。ガイドさんがついている観光バスでもこんな丁寧な説明は期待できません。その後に来る、雨の中の山歩きも、苦にならないほど、大満足のバスの旅でした。

こんな、バスの運転手さんは生まれて始めてといいたいところですが、これまでにも二度語る運転手さんにであっています。

一度目は、八ヶ岳・蓼科・車山と縦走して美ヶ原からの下山のために乗ったバス。夕闇迫る美ヶ原から出る最終バスの乗客は、このときも私一人。違ったのはバスの運転手さんの頭にマイクは着いていなかった事。やはり一番前に陣取って楽しく語りました。夜景のすごく綺麗な地点に来ると、他にお客さんもいないのだからいいだろうと、バスを停めて、じっくり見せてもらいました。連日、日の出前から日没後まで歩くハードな山歩きの後でしたが、なんだかとてもゆったりして、とても得した気分のバスでした。

二度目は、ネイチャーゲームのツアーで、アメリカに行ったときの事。ツアーの中心は、ネイチャーゲームの創始者コーネルさんの住むアナンダ村を訪れることだったのですが、ついでに、ヨセミテ国立公園を訪れました。ヨセミテ渓谷の中心にあるホテルに泊まって、ヨセミテ内を色々と楽しんだのですが、自由行動のある日、フリークライミングを楽しむ一日講習会に参加しました。講習場所は渓谷を北に遠く離れた場所。行きは車で送ってもらいましたが、帰りは路線バス(公園内ですが)で、帰ることになりました。
このバスの運転手さんがすごかったのです。やはり、頭にマイクをつけておられました。そして、運転しながらしゃべり続けるのです。当然のことながら英語なので、総ては理解できないのですが、何しろ現物があることですからそこそこには分かります。そして、やっぱり車を止めてくれるのです。動物のいるところ、大きな松の木の生えているところ、展望ポイント、不思議なキノコの生えているところ・・・・。場所によっては、車外に案内して、記念撮影まで。とにかく楽しい時でした。

運転手さんが、ガイドをするというのは、安全運転の観点からすると問題があるのかもしれません。でも、そんなバスに(運転手さんに)乗り合わせると、とても得した気分です。バスガイドさんより、路線バスの運転手さんの方が、路線周辺の事は数段詳しいわけで、条件にもよると思いますが、こんな運転手さんが増えるといいなあと思います。
2000.8.15

出会い旅目次へ

人と自然の出会い旅18
恐怖(?)の森の中
大好きなネイチャーゲームの一つに「夜は友達」があります。夜の森の中に、参加者を一人ずつ置いて行き、参加者はそれぞれ、夜の森の中で自然との一体感を味わうというものです。

参加者のかなりの人は、夜の森に一人いるというだけで怖がる人がいます。恐怖を乗り越える体験をしてもらうことが目的ではないので、いかにしてこの恐怖感を取り除くかが、指導に当たっての一つのポイントです。それでも、現実に森の中に一人にされると、どうしても恐怖感が先立ってしまう人はいるものです。そんな思いをしながらですが、数十分だけの体験にもかかわらずその中で、多くの人が貴重な体験をされます。なにも、不思議体験というわけでなく、何か森に包まれたような感覚だったり、森にとけ込むような感覚だったり、森の空気が自分に入り込んでくるような感覚だったり、木や草がとても身近に感じられたり、等々概して自然に対して前向きで豊かな体験です。それは、その人にとっては初めての体験であることが多いわけで、体験を通じて一人一人の自然観がずいぶん深まってゆくのを感じることができるのです。

そんなわけで、ネイチャーゲームの初級指導員養成講座でも、忙しい時間を割いて、「夜は友達」(する事になっているゲームには入っていないのです)を実施することがあります。今年広島のというところで行った養成講座でも、希望者と深夜に行いました。通常ですと、森の中にある山道を使うのですが、参加者の一人が車椅子で、しかも彼女が参加を希望したので、森の中の車道を使っての実施としました。車道で舗装されているといっても、山頂に公園があるだけの道ですし、街灯も無く十分に暗いし、木々に囲まれた空間です。ここなら大丈夫と、40人くらいで出発しました。

結果として、とてもいい「夜は友達」になりました。すばらしい気づきを得て、参加者の言葉も生き生きとしていました。ところが、恐怖の体験があったのです。いえ、別に幽霊がでたとか、火の玉をみたとかいうわけではありません。恐怖感を持ったのは、参加者ではなくて、そこを車で通りかかった何人かの人たちなのです(たぶん)。

初めてから終了するまでの約1時間の間に通った車は確か3台。寒くなり始めた、深夜にそんなところを通る車はないだろうと、実施したのですが、逆に言えば車で通った人にしてみれば、なおのことそんなところに人がいるなんて理解の外のはずで・・・・。想像してみてください、街灯もない深夜の山道を通っていると、突然路傍に人影が現れるのです。しかも、懐中電灯すらつけずにただ座っているのです。いるはずのない人影を見た人は、勝手にいろいろ想像したはずです。でもその結論として、「ああ、夜は友達をしてるんだ」と、正解にたどり着いた人は多分ゼロだと考えられます。むしろ、「出た!?」と、思った人が多いでしょう。通りがかった車は、とたんにスピードを落とします。そして、次々に現れる人影。徐行はするものの、車を止めて話しかける勇気も持てないのでしょう、そのままゆっくりと通り過ぎてゆきました。

翌日、呉の街の片隅で、大空山(会場になっていた山です)には、「出る」といったうわさ話が飛び交ったのではないかと想像します。願わくば、ほとんどアベックだったと思うので、共通の恐怖体験が、二人の中をより親密なものにしていればなあと・・・。

2000.11.30

出会い旅目次へ
出会い旅6へ